【ギフテッドな日々】障害と天才の挟間より速報

動作性IQ141ギフテッド。そんな人の視点から見た世界をつらつらとつづっていきます。

障害と天才の挟間にさよなら

大分長い事ブログを放置しておりました。

久し振りにブログを書こうと思ったのは、コロナニートになって5月6日まで時間に余裕ができたからなのですけれど、いいきっかけを頂きましたね。

とはいえ、今までもまったく時間がなかったわけではないのにブログから離れていたのは、もう私自身が、自閉症スペクトラムも2Eも名乗る事をしなくなったから、なのです。


今日は、

発達障害であった自分。
自閉症スペクトラムであった自分。
2Eであった自分。

に区切りをつけ、別れを告げるためのエントリーにしたいと思います。

Twitter開始からカウンセリングを受けるまでの経緯

5ヶ月くらい前にTwitterを始めたのは確か、自分と同じような発達障害を抱える人達と知り合いたい。集まったら何か変えられるかもしれない。との思いからでした。

実際に始めてみると、実に多くの人達が同じような悩みを抱え、情報交換を行っている姿が見えてきました。

それと同時に、発達障害者に煩わされたり、傷つけられた定型発達者の姿も。

さらに両者が、同じような仲間で固まって、自分達の主張を繰り返す姿も。


最初のうちは両者の主張に、うんうん、と頷いていたのですが、途中から、なんだかなぁという気分になってきました。


だって、自分達の主張をするばかりで、どうしたら双方が共存できるか、という建設的な交流がないんだもの。


そんな事を悶々と考えていた折、日々流れてくるツイートの中に偶然、『HSP/ギフテッド専門のカウンセラー』という人を見つけました。


本当かな?という気持ちと、日本にそんな人がいるのか!という期待とがありました。


私自身は特別生きづらさを抱えているとか、困りごとがあって悩みを聞いてほしい、という訳ではありませんでしたが、ものすごく興味を引かれました。


悩みがないのにお金まで払ってカウンセラーに会ってどうするのか、と思われるかもしれませんが、本当にギフテッドの事を分かってくれている人がいるのなら、会う事で何か新しいものが得られるのではないか。確信めいたものが掴めるのではないか。という期待があったのです。


しかも本当に奇跡的な事に、そのカウンセラーさんは私の家から車で30分ほどのところでカウンセリングを行っていました!


信じられますか?全世界とつながるTwitterを通して知ったのに、本当に偶然、たまたま、その方は目と鼻の先にいらっしゃったのです。


さまざまな事を総合的に判断した末、私はカウンセリングを受ける事にしました。

その『HSP/ギフテッド専門のカウンセラー』さんのサイトがこちらです。

www.nekkonokodomo-tachi.com



カウンセリングの内容については、ここでは多く語りません。

というか、カウンセリングを受ける人がギフテッドかHSP単体の特性か、また、受けるのが当人だけか親子セットで受けるのかとかで全然違った展開になると思います。


私の場合は理解が早すぎて、頂いたお時間の1/3くらいはもりやさん(カウンセラーさん)と雑談していた気がします。


自身もギフテッドであるもりやさんいわく、相談者自身がギフテッドの場合は話が早いそうで、私がカウンセリングを受けた目的も最初から理解してくれているようでした。

ちなみに、子供がギフテッドかつ親がギフテッドでもHSPでもない場合はちょっと難航するそうです。

これはTwitter上で、定型発達者と不定型発達者が相容れないのと全く同じ構造ですね。

カウンセリングは何を変えたか?

結論から言うと、思い切ってカウンセリングを受けて、本当によかったと思います。

発達障害とか自閉症スペクトラムとか2Eだとか、そういう“区分け”をして自己肯定する必要がなくなったのです。


ギフテッドとは何か。あるいはHSPとは何か。

何故、世間ではそれを発達障害と呼ぶのか。あるいはそう思わされてしまうのか。

何故、この世にこんな違和感を感じるのか。

どうしたらこの、“適応させられている”状態から脱却できるのか。


全ての答えがここにありました。


私は、ピンと来たらポンと行動してしまいます。

もしこのブログを読んでくれている人の中で、本当に今、これを必要としている人ならば、私が野暮なおすすめなどしなくても自分から興味を抱くのだと思います。


だから私自身が、ほんの一つのツイートにつまづいて気を止めた事がきっかけになったように、道端の小石のように、ここにヒントを置いていきます。


社会も、他人も、カウンセラーも、あなたを変える事はできないし、あなたもそれらを変える事はできないでしょう。


でも私達は気付き、知り、自らを更新していく事はできる。


私はそう思っています。

今後

いつかのエントリーでも少し言及したのですけれど、今回もまたこのブログのタイトルと私自身が少しかけ離れてきたな、と感じました。

障害でもあるし、天才でもある。

でも私はその挟間にいるのではなく、その二つを統合した存在なのだと今は思うし、そもそも障害とか天才とかいう言葉自体が、私の中ではもはや何の意味もなしていないのです。


なので、このブログの役目はもう終わりかな、と思いました。


一年半ほどの間、色々考えさせてくれて、ありがとう。


最後に私のTwitterアカウントを晒していきます。

https://twitter.com/9A3BwKFv1ELbtBA


短い間でしたが、【ギフテッドな日々】~障害と天才の挟間より速報~ブログにお付き合いいただき、ありがとうございました。

皆様が世間から貼られたレッテルや生きづらさから抜け出し、幸せに生きられる事をお祈りしています。

自閉症スペクトラムはかけ算ができない

はい。

大体みんなが忘れた頃にブログを更新するMAI-KOです。

今回もまた人を食ったようなタイトルですが怒らないで!
読み終えた頃には自閉症スペクトラム当事者が、「あぁー、はいはい!」くらいに納得できるような内容にはなると思います。多分。多分ね。


今回のテーマはズバリ、『定型発達と自閉症スペクトラムの認知の違いを数式化』です!

というわけで、今回のエントリーの発端から。

お互いにどんな世界が見えている?

Twitter発達障害界隈は現在、定型発達者と自閉症スペクトラム者、互いの主張が入り混じっている状態です。

体感としては、


定型発達者「お前らの理屈は分かる。でもだからといって人を傷つけるな。周りに迷惑かけるな。自分は人の話なんか聞かないくせに、自分の事は理解しろなんてふざけんな」


自閉症スペクトラム「なんで曖昧な物言いをするのか。きちんと言葉にしなきゃ本当のところなんて分からないのに、しかも本質まで共有できてないくせに、察しろ、って求めてくるのなんなの」


という主張が多い気がします。


どちらの立場に立ったとしても、相手の言い分は納得しがたいですよね。当たり前ですが、自分が感じるようにしか実感って持てないので。

よく自閉症スペクトラムは宇宙人に例えられますけど本当にそれで、違う世界の生き物同士が同じ生活居住区内で暮らしていて、自分達の流儀を押し付け合っているのだから、そりゃ民族紛争にも発展しますよね。


日本人同士だから同じ言語を使っているハズなのに、どうもその言葉の捉え方が違う。
捉え方が違う=認知が違う、なのですが、いったいどう違うのか。具体例とか、こんな風に感じてます、みたいな例はいくつも出てくるんですが、それらを包括する、認知の仕組みを語るための枠組みがどうしても見つからなかった。


そんな時、ふと(メタ認知的な事を言えば多分、レヴィンの公式を見たあたりがきっかけで)二者の認知を数式で表して比較できないかと思いついたのです。

定型VS自閉症スペクトラム 5分でわかる認知の違い

認知心理学は比較的近代になってから生まれた分野で、コンピューターの仕組みに着想を得ています。簡単に言うと、人間をコンピューターとみなして入力や出力の関係を記述するのです。そう、みんな大好きロジカル思考です。

まずは例え話から、自閉症スペクトラムの人がどういう認知の仕方をしているか記述してみましょう。


酸いも甘いも、という言葉があります。

が、実は多くの場合、自閉症スペクトラムの人にまとまりとしての(酸いも甘いも)という概念は存在しない。


(酸い)も(甘い)も、です。


我々自閉症スペクトラムは酸いと甘いを分離して取り出しますが、酸いも甘いも含んだまま取り扱うのが定型さんの能力です。

自閉症スペクトラムはこの、“含んだまま取り扱う”、というのが分からない。


x(酸い)とy(甘い)があって、それが両方あるよ、っていうのは分かる。x(酸い)とy(甘い)を混ぜたら甘酸っぱくなる、というのも分かる。


でも、(酸いも甘いも)ってなると途端に、なんだよ。???ってなっちゃう。


あ、今、頭に霧がかったみたいにもやもやもやぁ~、ってなったあなたは立派な自閉症スペクトラムですね。おめでとうございます!


……と、まぁ、私は自分で読んでみて、なんだか気持ち悪くなりました。なんか落ち着かないというか、収まりが悪いというか。


この例で何を言いたかったのかというと、定型さんはこの(酸いも甘いも)を自然に使いこなせるんです。

いわば、式を式のまま扱う能力ですね。

ここポイントね。実数じゃないんです。変数でもないんです。

関数式なんですよ。






……ちょっと、今までもブログで勝手に数式っぽいの書いたりしてたんだけど、記号論理学、っていう学問体系があるの昨日知りまして。
今日も勝手に自分ルールで書いちゃうけど、意味は通じると思うので大目に見てくださいな。




話を元に戻しましょう。

自閉症スペクトラムは式の作り方が足し算です。
例えば、相手が言った言葉そのものをx、状況をy、表情や間の取り方、声音、態度等々、その他の要素をaで表すとしましょう。

(x+y+a1+a2+a3+a4……)=自閉症スペクトラムが受け取る結果

aにはマイナス数値のモノも存在しますが、基本的に構造は、足し算、足し算、足し算……です。


それに対して定型さんは関数式を使います。

(xy【a1,a2,a3,a4……】)=定型さんが受け取る結果

みたいな感じ。多分、マイナスは絶対値みたいなやつで処理してる(適当)


自閉症スペクトラムも定型さんも、使っている要素自体は同じなんです。
でも認知が違う。認知に使っている、式の構造が違う。


定型さん基準で考えると、自閉症スペクトラムは定型さんが関数で捉えているところを、実数の積み重ねで捉えようとするんです。


最初に言った、『酸いも甘いも』問題はまさにそれですね。


定型さんからしたら……というか、多様すぎるこの世の複雑な問題においては、その式の答えがどうだ、というのは実は全く問題ではないんですよ。

ある物事に対して、本当に正確に答えを出そうと思ったら、到底理解の及ばない数字になってしまいます。
関係する要素を、言葉や態度はもちろん、その時の状況、自分の虫の居所、相手の家庭環境、人格形成に関わる生い立ちに至るまで、一つ残らずかき集めなくてはならないからです。

膨大な要素を含んだ上での、関数式ですという認識さえあればいいんですよ。


それに対して、自閉症スペクトラムは実数での式ですから、答えを出そうとする。

当然、人間が認知できる情報量にも限界がありますし、同時に処理できる情報量にも限りがあります。

例えば相手が何か、自分を攻撃してくるような発言をしたとします。

すると自分が処理できる範囲での実数を使って式を組み立てます。

で、実数だから必然的に答えが出てしまいます。


例のように、自分を攻撃されて答えがマイナスの数値で出てしまったとしたら、それはもう確固たるマイナスなわけです。
嫌な思いした。傷ついた。間違っている。そういう感情しか残らないわけです。

自閉症スペクトラム、省みる

俗にいう“空気を読む”とかの“空気”って、この関数の事なんですよ。多分。

自閉症スペクトラムが「表情や空気が読めないわけじゃない、でも共感というとちょっとよく分からない」というのは、実数に変換して事象単体としては理解はしているけれど、関数のままでは受け取れない、という事なのではないかなと思うのです。


というわけで、今回は定型さんと自閉症スペクトラムの認知的仕組みの違いを記述してみましたが、ちょっとこれ、先行研究探してみてもいいかしら。方向性決めてブラッシュアップして卒論に使いたいくらいなんですけども。ちょっと、(酸いも甘いも)にもやもやを抱えた方は一報ください。じっくりお話を聞いてみたい。



以下、蛇足的補足。



心理学の初歩で習う概念に、認知的倹約家としての人間、というのがあってですね。

ここまでに記述した通り、人間の認知処理機能には限界があるので、人は出来るだけ認知処理を簡素化・省略化するんですって。


定型さん達が得意な“関数を関数のまま扱う能力”もまさに、認知的倹約の一種ですよね。


自閉症スペクトラム当事者はこの認知的倹約を「本質をついていない」という理由で嫌う傾向があると思います。まぁ私もそうなんですけど。

確かに認知的倹約は本質を逃してしまう事もあります。関数を関数のまま扱っていると、その中に埋もれた大事な要素そのものに気付かない、という事は普通にありえます。


ただね、認知的倹約はただの思考停止かと言えば、決してそうではないんですよ。


現代は、特に昔に比べて、ものすごい情報量で溢れています。

その圧倒的情報量から効率的に取捨選択するためには、認知的倹約能力が必要不可欠なのです。

自閉症スペクトラムは本質を見るから雑多な情報には騙されない……確かにそうでしょう。ただその反面、木を見て森を見ず、という事もあるのではないかと思います。実数で積み重ねていく認知スタイルの自閉症スペクトラムは、基本的に視野が狭いのです。本質を大事にするあまり、自分が想像もしえない世界に埋もれているかもしれない、有用な情報に目を通す事が難しい。

しかも、自分自身がここに在る”という事は自身にとって絶対的に信頼のおける“実数”なので、自分自身の思う事に過度の信頼を置きがちです。

そして、自分が見たいものだけに偏っていく。


あなたも。私も、ね。


それは決して悪い事ではないし、突き詰めれば赤木しげるみたいになれる才能でもあるのですけれども、自分にそういった思考のバイアスがかかっている、という事を自覚しておいて損はないかなと思います。

認知的倹約家の功績とは?

そしてね、私達自閉症スペクトラムが嫌う認知的倹約。

実はこの能力は、現在の世界の秩序を保つためにも役に立っているんですよ。


例えば諸外国とのお付き合い。

単純な足し算だと、プラス要素よりマイナス要素の方が大きかったら「戦争じゃぁ!経済制裁じゃぁ!そんな国は滅びろ!」ってなるわけじゃないですか。というか実際、ネット上にはそんな声がいくらでもあがっ(ry

でも実際にはそんな風にはならない。

何故なら、非難轟々に晒されている政治家さん達はその実、一般ピーポーには見えづらい高度な関数を使って外交を行っているから。


式を式のまま扱って、独立変数(主張が食い違う問題)は消えずに残ってしまうけれども、共通項(共通の問題)は消せるようなやり方をしているわけですよ。


ここまで大それた例でなくても、態度に問題はあるけどお金はたくさん落としてくれるお客さんをうまく囲って利益を上げるとか、部長からの要求と平社員からの不満を上手に取り持つ敏腕課長とかもそう。


それこそ“酸いも甘いも”ひっくるめて、全く属性の違う変数もまとめて扱うのが関数使いの真骨頂ではないかと思っているのです。

自閉症スペクトラムの生きる道

進化心理学的な考えで言えば、認知的倹約は社会的動物としての進化やテクノロジーの発展に対する適応として捉える事ができます。

その延長線上で考えると、少し過激な表現になってしまいますが、自閉症スペクトラムは個性とかじゃなくて障害であると認めざるを得ない。

ただ、そう結論付けるのはもちろん早計というもので。


自閉症スペクトラムは人類の多様性の中で、新規開発&反証機能を担っている。と考える事もできます。


認知的倹約の中に埋もれてしまいがちな真理や新たな要素を発掘したり、その省略認知が本当に整合性のあるものかどうかを検証したりする役目ですね。そういう人がいないと、文明の維持はできても発展はできません。また、大多数に正しいと信じられてきた事が間違いだった時に、誰もそれに気付く事ができません。


だからといって、自分が正しいと思う事を周囲に押しつけてもいい、という事にもなりません。


自閉症スペクトラムにも神がかった才能を発揮したり、コツコツと長きに渡る仕事をこなす事が出来る人がいる一方で、俺様とかモラハラとか周りに迷惑をかける層がいます。

もちろん、定型さんにも前述したような素晴らしい関数使いがいる一方で、同調圧力に乗って人をこき下ろすような層もいます。


これは特性の問題というより、知性や教養の問題だと思うのです。


世界の多様性の中で見た時に、自分には何が足りていないのかを自覚するのは役に立つと思います。
自分には足りていない部分がある、という事を受け入れさえすれば、少しは優しく、謙虚になれるんじゃないかな。私も、少しはましになった……と、思う。多分。


その後はそのまま突っ走って赤木しげるになるもよし。

教養を身につけて賢者に転職するもよし。


……そう。今、私が考えているのは、自閉症スペクトラムが定型さん的認知的倹約を身につける、もしくは定型さんが自閉症スペクトラム的要素分解を身につけたら、賢者になれるんじゃないかって事。

今回の認知の数式化は、賢者になるための第一歩だったりするわけです。


というわけで、今回のお話はここまで。

とりあえず、今期、記号論理学の授業取って出直してきます。

自閉症スペクトラムの人に読んでほしい共存社会と教育の話

ASDと教育方針

大学の勉強のいいところは、“好きな事”を漏斗式に絞り込んでいく事ができるところだと思う。

誰にでも、ぼんやりと“好きな事”、ってあると思うんだ。

別に数学が好きとか英語が好きとかそんな分かりやすいものに限らず、例えば、ゲームやマンガみたいなのから始まり、スポーツ、パズル、買い物、園芸、旅行、なんでもいいんだけど。
そういうカテゴリーから、更にやりたい事を絞っていけるのってすごくいいと思う。


私は“目に見えないものの仕組み”が好きだ。


例えば、人の心。
例えば、社会の仕組み。
例えば、成長の過程。


ただ、好きだけれど、漠然としている。それを勉強している、といったところで「だから何?」という話である。
ゲームが好きで、1日何時間もやってます!「だから何?」というのと一緒なのだ。


“ただやりたい事をする”“好きだからやっている”というのは、結局、何がしたいのか自分でもよく分からない、という事態に陥ってしまう。

例えば旅行。
最初は目的もなく、行きたいと思った土地をふらふらさまようのも楽しいだろう。ただ、いくら好きな土地に来たからと言って、いつまでも目的もなく、ぼんやりふらふらしているだけだとそのうち飽きちゃう、って事なんだな。

でもふらふらし続けていて、その土地の人や文化や空気に触れて、「ああ、ここは居心地がいいな」と思ったら、その土地の名所に行ってみたり、行きつけのパン屋ができたりBARができたり、なんなら永住しちゃったりすると思うんだ。


大学の勉強はこれに似ていると思っていて、私は自分の単純な興味から、“目に見えないものの仕組み”である心理と教育のコースを選択した。

すると心理学(目に見えないものの仕組み)という大きなカテゴリーの中にも更に細かな分類があって、勉強を進めていくにつれ、漠然としたいわば“業界全体に対する好き”を、“これが好き”に変えていってくれるんですね。


ぼんやりとした目的じゃどこにも行けない、何の発展性もない、というのは確かにそうで、「イギリスに行きたい!」っていうのと、「イギリスのグリニッジ天文台に行きたい!」っていうのは全然違うと思うんですね。


我々自閉症スペクトラムは、目的(全く興味のない外界)が先にあって、自分達(内面)をそこに合わせるのが多分、相当難しい(というよりそれはもはやアイデンティティの崩壊に近い)ので、遠回りに感じるようでも、自分の価値観を辿って目的地を見出す積み上げ式を基本とした方がいいような気がします。

好きな事をとことんやってみるのがいい、っていうのはそういう意味なのかもしれない。

もちろん、とことんやるにしても、最低限の社会との共存は維持した上でね。


自閉症スペクトラム(少なくとも私)の視点から言い換えれば、どこに行きたい&どうなりたい(目的、結果。外界的作用)に大した意味はなくて、どうしたい(過程。内面的作用)が先に立つので、興味を突き詰めて、やりたい事をはっきりとさせた方がいいんじゃないかな?

具体性が出れば、やりたい事をやっているのに結果も出て、結果的に社会が求めるものとも合致する。

必要なのは、興味の対象を広く深く学び、具体性に落とし込める環境を知る事だと思うのねん。

ASDな私の実際の再教育ルート

“目に見えないものの仕組み”が好きな私は→
小中高で学業の退屈さに見切りをつけ→
生活(実践)の中で色々と思考&解決を繰り返していたが→
体系化された心理学との照らし合わせをしたいと思い→
大学で心理学を学びはじめ→
その心理学の領域の中で何がしたいのか分かり始めた(new!)


前述した長いまえがきを自分に当てはめるとこんな感じ。


実は私、大学に入る前は心理学に猛烈な偏見があったんですよ。

スピリチュアル的な女性が好んで、簡単にカウンセラーとか名乗って分かったような気になっている、現実には何の解決にもならない、毒にも薬にもならないようなシロモノ……みたいなw

それだけ私の目につくところに、毒にも薬にもならない心理テストとか、うわべだけを流用している自称セラピストが多かったんでしょうな。


でも曲がりなりにも学問として確立されているのだから、と、心理学なんぼのもんじゃい!くらいの気持ちで大学に申し込んだら、これが面白いのなんの!

まず、学問=体系化、ってのがいい。
心理そのものは目に見えなくて、ぼんやりとしたものだけれど、それを明確に言葉で切り分けているのがいい。それも世間で多く目の当たりにしてきたようなおおざっぱなカテゴリー分けじゃなくて、素材レベルにまで掘り下げているのがいい。

そんな風に、素材の部分まで掘り下げて仕組みを解説してくれるから、積み上げ式が好きなASDにはぴったりの学習法ですよね。


で、ひとくちに心理学といっても実に様々な領域がある事が勉強するうちに分かってきます。

厳密に住み分けができている訳ではないので最初はちょっと混乱しますが、色々な講義を学ぶうちになんとなく分かってきます。
心理学、というぼんやりとしたカテゴリーが、だんだんと細分化され、具体性を帯びてくるわけですね。


で、約8か月大学に在籍して、私が「やりたい!」と思ったのがこれ。


進化心理学の観点から、
社会心理学を紐解き、
臨床心理学で個々の事例を解決する。


ちょっと分かりづらいですね。


一つずつ解説させていただくと、進化心理学とは、人の心理メカニズムは生物学的適応(つまり進化)の結果、生まれたものであると仮定して研究を行う領域です。超ざっくり言えば、人の心理は生物として生き延びるのに必要だったからあるんじゃないの?というアプローチ。

次に社会心理学とは、個人と社会の相互的影響関係を研究する領域です。ここでいう個人と社会は、いわゆる一般社会、というのに限らず、自分対他人、自分対他、という構図全てを含みます。

最後に臨床心理学は、実践の心理学ですね。上記2つの観点をベースとして、色々な人の発達障害適応障害を解決していけたらベストなんじゃないかい?と思っている訳です。


もちろん、上記以外にも発達心理学とか教育心理学とか頭に入れておかなければならない事は物凄くあるんですが、心理士の卵としての私の基本スタンスみたいなものです。ぼんやりとした興味の中から軸が決まった、という感じですかね。

そうなると必然的にやりたい事の方向性が決まる訳です。ぼんやりとした中で現状維持→飽きてまた別の何かを探す、とならず、より高次に発展していく訳です。


ASD視点で考える共存社会

で、私が進化心理学社会心理学をベースに置きたがる理由をちょっと語らせてもらいたい。

俺はお前を全肯定 ~進化心理学

上記で説明した通り、人の心のメカニズムが生存に必要な進化の末に生まれたものであるならば、そこには必ず、そういう心理になった理由が存在するはず。

持って生まれた性質(健常、ASDADHDなど)と、後天的な影響から構築される心理メカニズム、双方に了解可能な理由があるはずなんです。

了解可能という事は、周囲に認められるという事。周囲に認められるという事は、存在を世界に承認されるという事です。


これはどういう事なんでしょうか?


世界中の誰しもが、アイデンティティを見い出せる、という事なんですよ。


心とは人間が、ひいては人類が生き延び、発展していくためのシステムなんですよ。

めっちゃ仮説でモノ言っちゃいますけど、健常者だってね、その時代、その文化でより多くの数が生き延びている多数派だから健常と呼ばれているだけ。非定型発達には変化に対応したり、進化を促す役目があるんですよ。


感情とは、持って生まれた性質を元に、生育環境から与えられる反応と照らし合わせて、より生存確率が高くなるように形成されていくものだと私は思っています。

コンピューターとは違う不確定なこの世界で、ある一つの生命が自分にとっての正解(=より生存確率の高い方)を選び取るために発達したものだと思っているんですよ。


機能不全家族の下で育った子供が実社会に適応できずに苦労するのは、本人にとって歪んだ環境であった幼少期を生き延びるために形成した感情システムが、実社会においては全くマッチしないから。
その形成済みの感情システムからなかなか抜け出す事ができないのは、そうしなければ生きられなかったかもしれない、というほどの成功実績と強迫観念があるから。


そんな風に、人間の心理をいち生物の生存システムとして考えてしまうとなんとなく冷たい感じがするかもしれませんが、実は逆です。全肯定ですよ。


あなたが持って生まれたものも、生まれてから築いてきたものも、これから新しく築こうとするものも、もしかしたら“最善”ではなかったかもしれないけれど、人類全体の進化の流れで言えば全て正しいという事になる。

過去の自分と全く違う考え方を取り入れたからといって、それがこれまでの自分自身を否定する事にもならない。何故って、過去の状況においては事実それが生き延びるのに必要なシステムだったのだから。

それに加えて、現代はかつてないほどの速さで環境が変わり続けている。生物学的適応の歴史を見ても、生き延びるのは環境に対応して進化し(変わり)続ける事のできる生物なのではないでしょうか。

私はあなたとは別人格 ~社会心理学

進化心理学ベースで全人類を全肯定した上で、次に出てくるのが社会心理学です。

先にも書きましたが、個人と社会の相互的影響を研究するのが社会心理学です。ここではまたまた超ざっくり、自分以外の全てと上手にお付き合いしていきましょう、という時に役に立つ考え方を提供してくれる学問とでもしておきましょう。


ただしここでは、自分対他人、1対1、で起こる人間関係の問題には触れません。
個人対個人の問題は、進化心理学の考え方で辿った、個人の性質と環境適応の結果同士の問題なので、相手や自分をできる限り理解したうえで対応する(和解する、距離を置く、拒否を示すetc.)しかないと思うからです。

ここでの社会心理学が示してくれるのは、文字通り『社会』。

会社であれ、家庭であれ、何らかのコミュニティであれ、集団は『社会』を形成する。


ちょっと不思議な話ですが、『社会』とは単なる個体同士の寄せ集めではなく、『社会』(=集団)になった時点で、個々のそれとはまったく別の“社会的性格”が生まれるのです。


例えば、夏の砂浜でお城を作ったとします。

するとそれは“単なる砂の集合体”ではなく、“お城”に見えますよね。


………


めっちゃ当然の事を言っているようですが、そういう事なんです。

家族にしろ、会社にしろ、何かしらの目的をもって複数の個が何かを形成する。その構成個体数が多く、また形成イメージが強いほど、それを構成しているある一つの個の性質とはほぼ無関係の、“社会全体が持つ性格”が表れるのです。


それがその社会における“常識”として個を支配したりする。


だから人は群れとして、集団として団結できるのですね。

集団が大きければ大きいほど、結束が強ければ強いほど、人は大きな事を成す事ができます。砂浜の砂だって一握りではお団子がせいぜい。お城はとても作れませんからね。

半面、その社会に属する多くの個が「しんどい」と思ったとしても、全体支配の魔法にかかっているようなものなので、「そういうものだから」と思考停止してしまう。


ここがね、健常とASDの違いが顕著に表れるところかもしれないですね。

自閉症スペクトラムはその名の通り内に閉じていて、自分以外とつながる、という感覚が非常に乏しいので、良くも悪くも全体支配の魔法にかからないのです。


……とまあ、こういう事を考えていくのが社会心理学なのですが、こうして自分と社会との関わりや仕組みを紐解いていく訳です。

現実のあなたと話す事に意味がある ~臨床心理学~

で、上記のような理屈をただこねていただけでは何の役にも立たないので、臨床心理学の出番となる訳です。

だって一人一人、持って生まれた性質も育った環境も、その結果得た性格や感情システムも、全て違うんだもの。

いや、賢い人なんかはこれ読んだだけで色々理解して自己完結しちゃうのかも知んないけどさ。むしろそうしてくれたらいいと思って、こんな文章量になってしまっているのだけれど。


私が……というより、人が、同じ人を臨床したい、なんて何様だと。おこがましいとすら思ってしまう。

そんな風に思ってしまうのは、私がASDだからかもしれない。

誰かのために、なんて言えない。そんな感情、ないのだから。結局自分がそうしたいからそうしているだけなのだから。


ただ、私は誰かの話を聞きたいと思う。

苦しんで、しんどくて、それでもあなたがどうやって生きてきたか、本当は何が欲しかったか、今はどんな壁にぶち当たっているのか、聞いてみたいと思う。


私は生身の人間が好きだ。


社会には上手に適合できていないけれど、それでもなんとか自分を保って生きている、不器用で人間らしい人たちが大好きだ。

そんな人たちのそれぞれの物語を、聞いてみたいと思うんだ。そんな理由で心理士になろうとしている。


“社会的性格”と上手に共存できている人たちは、素晴らしいと思う。私が心理士になったところで彼らと話す機会はないだろうが、人間的に素敵な人が多いので、私は彼らの事も好きだ。


逆に“社会的性格”と同化して、社会的な正義を振りかざす人たちに対しては、思う。器用な彼らは一体どこに、か弱い生身を隠しているんだろうかと。

実はね、一番しんどいのは彼らなんじゃないかと私は思っているんだけれど、仮に機会があったとしても、まだ彼らの話を上手に聞ける自信がないな。


………


最後、ちょっと散文的になってしまったけれど、書きたい事はあらかた書けた気がする。

元々は『暗黙の了解的なコミュニケーションはなぜ生まれ、ASDはなぜそれを理解できないのか。そしてそんなASDはどうすればいいのか』ってとこから始まったエントリーだったんだけどどうしてこうなった。

自閉症スペクトラムは共感が苦手、だけど……?

はいはーい、大学受講期間中につき、絶賛ブログおさぼり中のMAIKOだよ。

中間課題の小論文一つと、なんなら出題範囲の講義すら終わってない科目が一つあるけど、うっかりこんなところでブログを書き始めてしまっている。
何故なら、親愛なる某友人(と一方的に思っている)のつぶやきに“感化”されてしまったからさ。

という訳で、今日のテーマは『共感』

共感、ってなんだろね

親愛なる某友人(以下、彼)も私も自閉症スペクトラムだけれども、私は彼に出会うまで、“私達は共感ができない”という発想に至る事はなかった。

言われてみれば確かに、スポーツを見ていても「感動した!応援したい!」みたいな気持ちにはならないし、過去記事でも書いているように「家族っていいね!」を冷ややかな気持ちでやり過ごしたりしていた。にも拘わらず、今日まで私が“自分には共感能力が欠けているのでは?”という発想に至らなかった理由はなんなのか。


結論から言うと、“なくても特に生存に支障はなかった”から、なのかな。


幸い、私は両親に世間体を強要される事もなく、世間の型にはまらずに生きてこられた。自分が正しいと思うように、自分で選択して生きてくることができていた。

従って、絶対条件くらいのレベルで共感を強要される現場で、自分を押し殺し続ける必要はなかったわけだ。そういう状況が続くようならさっさと転職していたからねw


共感に関しては、「みんなはそう思うんだな。私はそう思わないけれど」みたいな感じ。


私が思う共感とは、相手の立場に立った上で、相手の気持ちを想像して、「分かる分かる~」って事だと思う。
自分がその相手に近い体験をしている時は、(ああ、ああいう時のこういう気持ちかー。あるよねー)みたいな感じ。共感って、そういう事じゃないのかな?

まぁだから何、って感じではあるんだけど。

というのは、自閉症スペクトラムの私達にとって、うわべだけの共感やどうでもいい共感があまりにも多すぎるからだよね。


私は自分に、共感能力が皆無であるとは思っていなかった。

だって小さい頃は、ひよこちゃんの形のゼリーがかわいそうで食べられなかったし、気の強いお友達に意見が言えなくて泣いてたりしていたわけだし。

でもそれって感受性の問題であって、“共感”とはちょっと違うよね。


一部の自閉症スペクトラムASD)が共感を苦手とするのは、共感が外的世界を通して行われるものだからだと思う。

自閉症スペクトラムにも豊かな内面的世界があるんだけれども、自閉症スペクトラムは実体的な、外的世界には興味が湧かない。自分の内側と外の世界に隔たりがあるから“自閉”なのだ。

“共感”をするには一度、外的世界を介さなければいけないわけだから、自閉症スペクトラムにとってはそこで無理が生じる。


彼が使った“感化”という言葉は、外界を通さない、いわば内面的世界同士の共感と言い換える事ができるんじゃないかな?

であれば、“感化”は“共感”の上位互換(ん?ちょっと語弊があるか)であるとも言えるし、我々自閉症スペクトラムが世間でいう“共感”を表現する際の、正しい言葉の使い方なんだと思う。

観察の先にあるもの

ふと、セラピスト時代の後輩との会話を思い出した。

会話の内容としては、嫌いな人間、考え方が違う人間、理解できない人間に対してどう接する?みたいな話だったと思う。


後輩は、切り離して考えると。ある程度の距離を置いて、自分は自分、相手は相手、みたいに接すると言っていたかな。

私は「世の中のあらゆる事象を一つ一つ理解して、“分からない”を潰して、全てを受け入れていきたいと思う」と返した。

すると、後輩は「大変じゃないですか?きりがないですよ」と。


後輩が健常か非定型発達かという問題はさておいて、“共感”ができない局面というのは、自閉症スペクトラムでなくてもあるわけだ。



彼は、「共感ができないから、これからは観察をするのだ」と言った。


私は、人が人を観察する、という表現が嫌いだった。

それは多分、「趣味は人間観察です」なんて声に出して言ってしまえる人間の傲慢さを、目の当たりにしてきたからだと思う。

観察、という言葉には、客観的な、自分事ではない、上から目線を感じる。


でもよくよく考えてみると、自分もしていることは一緒だなぁ、と思った。

「世の中のあらゆる事象を一つ一つ理解して、“分からない”を潰して」

これって、“観察”がないと成り立たないよね。


でもね、声を大にして言いたい。

私は、世の中のあらゆる事象を、
①“観察して”、
②一つ一つ理解して、
③“分からない”を潰して、
④全てを受け入れていきたい

と思うのだ。


“観察”だけでは足りない。それは事象の記述に過ぎない。

私が得意げに人間観察を語る人間を嫌うのは、その記述された事象を、結局は自分の価値観で判断している事が多いからだ。

②の“理解”をしようともせず、③を“分かった気になって”スルーして、他人を裁定している上から目線を見ると、なんだかなぁという気分になる。


完全な理解になど及ばないにしても、観察の上に納得のいく解釈を見出せれば(いわゆる了解可能の域まで持っていけば)受け入れる事はできると思う。仲良くしたいかは別として。

全てを受け入れてしまえば、自分が我慢する必要も、他人を変えようとする必要もない。ストレスとは無縁の、人生イージーモードである。


という訳で、超個人的には“観察”よりも“観測”の方がまだしっくりくるかなぁ。推し測る、という意味も込めて。
そこまでこだわる必要もないことだけど、言葉選びって難しいな。



完全に余談だけれども、私は“セラピスト”という言葉が好きではない。母国語(日本語)で表現できないカタカナ横文字はもやっとしていて表現的には変な含みも持つから、どうしても紛い物の香りがする。生存活動の保険として在職中にリラクゼーションセラピスト1級まで取ったけど、早いとこ認定心理士あたりで上書きしたいくらいで(完全に個人的な感想です。気を悪くした方がいたらすみません!

いわゆる『無知の知』ってやつだけど。

許せないものや苦手なものがある、っていうことは、本当の意味でその事象をまだ理解出来ていない、ってことだと思うんだよね。

いや、あるよ、私も苦手なもの。作動記憶。これもきちんと理解して療育とか受けたら向上するんかな。あとトマト嫌いとか、そういうのはまた別の話ね(←事象じゃない


とりあえずソクラテスは偉大だなという話ですよ。

分かっている気にならなければ、決めつけは起こらないし、知ろうとするし、理解しようとするよね。


“共感”の恐ろしいところは、分かった気になり、かつ分かってもらえた気になっちゃうところなんですわ。


どうしてって?

外的世界を通した時点で、あらゆる事象は社会的に認知される、共有されるものだから、(内部がどうあれ)表面的に双方が了解可能を示している時点で、「通じ合った!」という認識になってしまうからですよ。

なんで人間にはそんな機能が!とお思いになられる方もいらっしゃるかもしれませんが、これは群れを成して暮らす社会的動物(人間)の処理能力節約術なんですよねー。


だって大変だから!いちいち相手に正しいかどうか、細部まで確認を取って行動するのは。


だから自閉症スペクトラムが健常集団に混ざると、「そんなこといちいち聞いてくるな!」とか「その確認いる?」みたいに面倒臭がられちゃう。健常の彼らは共感を生かして、細かい内部はすっ飛ばして、効率的に結果が生まれるように内部活動を節約しているわけだから。

だから時に、フタをした内部で起こっている不整合に気付かず、真の意味での意志疎通ができずにトラブルになる訳ですねー。


色々言ったけど、“共感”だって人間社会を効率よく生きるために役立っている。

ただし心理学を始めとするあらゆる学問が発達した現代では、共感を意図的に誘発してきたり、情報があまりにも過多すぎて共感に振り回されたり、って事が多くなってきているとも思うんだ。


大切なのは、

①“共感”は節約の機能であるという事。
②“共感”と“共通認識”は違うモノであるという事。
③己の無知を自覚する事。

ってあたりでしょうかね。



最後に親愛なる某友人さん。勝手にブログに引用しちゃってすみません。
でも、いつも本当に楽しい“感化”をいただいております。ありがとうございます!

小学校教員いじめ問題から加害者の心理について考えてみる

神戸の小学校教員いじめ問題のニュースを見ていて、どうしてこういう事が起こるんだろうな、って思っていた。

内縁、再婚の夫による子どもの虐待事件もそう。ようはいじめだよね。弱いものを叩く、いじめ。


だってさ、普通に考えれば異常じゃないですか。


こうしてニュースになった時、誰もが憤りを感じ、加害者には大バッシングを浴びせます。つまり、大体の人はいじめが悪いことだって分かってる訳じゃないですか。

さらに教員いじめのニュースに関しては、加害教師は生徒たちに対しては「いじめはダメ!」的な指導をしていた、と。


そうなると、加害教師たちは“表の顔と裏の顔を使い分ける最低の悪人”のように捉えられてしまう。


捉えられて“しまう”、という表現を使いましたが、別に私は、加害者側を擁護するためにこの記事を書いている訳じゃないですよ。


そうでなくて、加害者の人格がクズだったから、というのは、いじめ発生の要因として的を得ていないんではないか?というのが、今回の記事のテーマなのです。


いじめのメカニズム(仮定)


結論から言いますと、いじめてる側ってまず、いじめている自覚がないような気がするんですよね。

いじめている側は社会的強者です。これは絶対。

教員いじめの例で言えば、加害教師たちは校内では中核的な存在。子を虐待するのは、子どもを導くべき親。教室で起こる多数対個人のいじめは数の暴力ですよね。


そういう加害者側って、おそらくね。

いじめはいけない、というステレオタイプの情報は持っているけれども、自分が行っているそれがいじめだという発想にはならないんですよ。事が公になって、誰かに指摘されるまで。


どうしてかって?

自分が正しくて、相手に非があるからですよ。

加害者の感覚の中ではね。


例えば、仕事が効率よくできない。言いつけを守れない。友達とうまくコミュニケーションが取れない。

人間、得手不得手があって当然ですよね。

でも相手の苦手とする部分が、たまたま社会的強者にとっての“できて当たり前”であった時、“正しい自分とできないアイツ”という見下しが発生する訳ですよ。



見下される側から言わせてもらえば、違う人間ですから、どうしても修正できない苦手があったり、価値観も違うからそもそも修正するべきものではないと思っていたりする。極端な話、生得的な問題(例えば外見とか)だったりしたら、それこそ修正できるものではないですしね。


このまま社会的強者の中で、“正しい自分とできないアイツ”が定着してしまうとどうなるか。


“アイツ”はもはや、自分とは違う生き物になってしまうんですよ。


自分とは違う生き物だから、“アイツの立場に立って”とか、“もし自分が同じ事をされたら……”とかいう視点が消え失せてしまう。

自分の方が正しいのだから、自分とは違う生き物の方がこちらに合わせるべきだろう、という傲慢な考えになってしまう。


これがいじめのメカニズム(仮定)だと思うんだけれど、どうだろうか。


社会心理学も面白いよ


実は私自身、ついこの間まで一月ほど、仕事でお客さんに軽くいじめられてたというか見下されてたんだけど、これも数の暴力みたいなところがあってね。

だって私を見下したお客さんの一人一人は、ある日の前日までは普通におしゃべりしたり、なんなら昔、一緒に遊びに行ってた人までいたんですよ? その人たちが集まってグループで行動するようになってから、ちょっと変わってしまった。


そう、集団になって価値観を共有する事で、彼らは“強者”になったのです。


確かに、私の立場がお客さん同士→店員になってから、発達障害的な部分が目立ち、ご迷惑をかけてしまっていました。おそらくはそれで“ダメな奴”のレッテルを貼られてしまったのでしょうね。


あ、ちなみに今はもう大丈夫です。一時期の気まずさは解消されましたし、当時は店長や主任がめっちゃ味方になってくれました。ありがてぇ……



……とまぁ、環境や状況が、本人の自覚なしに人間性を変えてしまう、って事も普通にあるんですよ、っていう話でした。



各地で起きているいじめや今の体験談もそうだけれど、自分と環境、自分と他者、という“関係性”の中で起こる心理変化は『社会心理学』の分野ですね。

昨今の社会病理は、そういう心理的な面から紐解いていって、世間の共通認識を変えないと解決しないんじゃないかなぁ。


そもそも、“正しい自分とできないアイツ”思考だって、自分が正しい側であることを自他に認めさせるための(そして安心するための)思考だと思うし、弱者強者の分類以前に、人は皆、認められたがっているんだと思う。


もっとこう、『多様性』という言葉が正しい意味で広まるといいよね。得意も苦手も同じも違うも全部ひっくるめて、「多様性の中の一つの生物、MAIKOです!」みたいな。そんな感じ。

そんなみんなの自己紹介、いつか聞いてみたいと思う。

あなたが持つ“発達障害?”とは何なのか。という話

はい。1学期の単位認定試験が終わってから、割とコンスタントにブログ更新できていたなと自画自賛しているMAIKOです。

時間配分の優先順位、分かりやすいなぁ。

ぼちぼち2学期が始まりますからね。書きたい事は今のうちに書いておかないと。

という訳で今日のテーマは『あなたの正体、私の正体』について。


自分を表す言葉が見つからない問題

えーとですね、2、3記事ほど前から私、唐突に“2E”という単語を使い出してしまったのだけれど、まずはその事について。

このブログのタイトルにもあるように、私はギフテッドなのですが、正確には2Eと呼ばれるものに分類される事が比較的最近、判明しました。

ギフテッドは平均より大きく上に外れた知能、という点で例外。
発達障害は平均より発達の差が大きいという点で例外。

その例外をダブルで持ち合わせている、という意味で2重例外=2E(twice-exceptional:二重に特別な/二重の特別支援を要する)という言葉があるのです。


まさに天才と障害の挟間、ですね。


しかしですね、この2Eという言葉に辿り着くまでがほんっとーーに長かった。


だって、このブログを読んでくださっている方だって、知ってました?2Eなんて言葉。

大体、ギフテッドって言葉だって、言うてそこまでメジャーではないですし。なまじ高IQ叩き出したり特定の仕事は得意だったりするから、Wikipediaでギフテッドの項目とか見ても、ちょろっと書いてある程度の2Eとか自分には関係ないと思って華麗にスルーしてましたし。

でも、やっぱり知ると、ギフテッド、っていうよりは2Eの方が自分を表すのに遥かにしっくり来る。

むしろ知ると、ギフテッドの方を自称するのはおこがましいまでありますw


で、ブログのタイトルも変えちゃおうかなーと思ったんですけど、当面はこのままで行く事にしました。


何故って自分がそうだったように、2Eを掲げたところで2Eという言葉を知らない人の方が多い、と思ったからですよ。


このブログを始めた時はそこまで考えていなかったのですが、最近は少しでも自分と同じような、発達障害、精神的マイノリティとつながれるような、そして「ふーん、なるほどねー」程度にでも面白がっていただけるようなブログに出来ればなと思い始めています。

だから2Eよりかは幾分知名度の高い、ギフテッドと発達障害の方をタイトルに掲げておく事にします。入り口として。

そこからギフテッドでも2Eでも自閉症スペクトラムでもADHDでも、はたまた分類しづらいオリジナルな特性でも、このブログから自分を知る手がかりを見つけてもらえればと思うんだ。


人は何故、名付けられたがるのか

自分が2Eだ!と気付いた時、私はほっとしたというか、「ああ、これだ!」みたいなしっくり感があったんですよね。

2Eという言葉を知る前から、数値上では分かっていたんですよ? 自分が高IQと発達障害、両方の特性を持っている、という事は。なのに何故、このタイミングでほっとしたんでしょうね?


人はですね、自分の存在を確定させる時、言語に依存するんですよ。


……んー、ちょっと待って、分かりづらいな……


思考実験的になっちゃいますけど、例えば地球上で最初から生き物が自分一人しかいなかったら、人は自分を自分と認識する事はできないんですよ。おそらく。

比較対象がなければ交流の必要もないので、何かと自分を区別する必要もない。当然、言語も生まれない。

逆に言えば、言葉にする事で、人は社会性を持つんです。

つまり、言葉にする事で自分という自我の存在を世界(社会)に認めてもらえるわけなんですよ。


もちろん、言葉っていうのは通じてなんぼですから、誰も知らない宇宙語で表現しても意味がない。

既に世界に存在する、既に知っている誰かがいる言葉で自分を表現できた時、人は存在を周囲にも認められたと感じ、不安定から安定に転じるんです。


ほら、中学生くらいの時、カッコいい二つ名とかに憧れませんでした?w
『鷹の目』とか『独眼竜』とか『漆黒の○○』とか『音速のソニック』とか←違う

あれも自己表現というか、その言葉の意味が持つカッコよさと自分を同一化できるから、ワクワクの対象になるんですよね。


……ちょっと話が脱線しましたが、“私はこうなんだ”という事を正確に言語化する――もっと言えば、分かりやすくカテゴライズする事自体が、自身の安定につながる、って事ですね。


そう、人はそれを『アイデンティティ』と呼ぶ。


まずは自分の足でしっかり立たない事には、どこに向かっても歩き出せませんからね。


その分、間違った“名づけ”、間違った言葉の解釈をしてしまうと、今度は逆に自分を苦しめてしまう事にもなりかねません。「自分はダメ人間だ」「自分は誰からも必要とされていない」などというレッテルに支配されてしまうと、なかなか抜け出せないのと一緒で、まさに“名づけは呪い”状態になってしまう。

私が臨床にこだわるのはそれゆえで、一人一人を正確に理解したいと思うからなのかもしれません。


ブログに本音を書く社会性育成効果がすごい

こんな風に自分で自分を模索して、書いて、整理して、振り返って、ネットを通じて誰かの目に触れる。

この“誰かの目に触れる”っていうのが大きくて、それこそが今さっき説明した、『自分という自我の存在を世界(社会)に認めてもらえる』、の元になるんですよねぇ。

本音を書くのほんと大事。ただ見栄えよく、綺麗に塗り固めただけのうそんこ記事だったら、私はここまで続けられなかったと思う。


どこかの誰かに本音を聞いてもらえるというだけで、ブログを書くという事には充分な価値があると思います。


でもね、最初の方にもニュアンスが違う感じで書いたけど、最近、ちょっと欲が出てきている自分がいる。


全ての発達障害、精神的マイノリティを救う……なんて言ったらおこがましいですが、そういう人達が世間で大活躍したり、幸せな日常を送れるような手助けができたらいいなぁ、とかうっわぁ!!偽善っぽくて吐き気がする!!(;´Д`)


こういう、いかにも“人のため”みたいな書き方じゃなくて、もっと私らしい書き方ないんかい!


……えーとね。


ぶっちゃけ、興味があるのですよ。


“普通という名の均一性”から外れた人達が、色々悩まず楽しく生きていける世界に。


何故なら、私も息子も、外れ値だから。


それでも私は良い半生を送っていると思うけれども、やっぱり本音でしゃべれなかったり、しゃべっても意図がうまく通じなかったりで、相変わらず心と外界は壁一枚を隔てている。その壁を、少しだけ越えてみたくなった。何を思ったのか、もっと社会性を発揮してみたいと思ったのだ。

それこそ多分、ブログの本音を見てくれた皆様が、私のミジンコみたいな社会性を育ててくれたからですね。ブログすげぇ!!


具体的には、発達障害?が活きる仕事を開発したり斡旋したり、発達障害?が原因で登校拒否の子どもの寺子屋的一時預かりとか、そういうのをやってみたいですね。



……とはいえ、発達障害等の領域はかなり広く、きちんと色々を判断するには、知識も実践もまだまだ足りません。

まずは勉強ですね。もちろん、このブログも続けながら。

何か進展ありましたら、またブログに書き殴っていきます!

臨床に勝る発達障害対応などない

先日、幾日かぶりに息子を宿題にたきつけ、付き合ってみた。

ここ数日は登校のストレスが強く、宿題は暗黙的に免除していたわけなのだが、改めていろいろな発見があった。

確かに息子は登校しぶりで突発的に学校を休む上、通常級と特別支援教室を行き来していて、まともに授業を受けているとは言い難い。授業に出たとしても、集中できていない事も知っている。それを差し引いたとしても、思った。


こんなにできないものなのか……と。


だって、言うて小学校3年生ですよ?

自分の体感としては、小学校の授業なんて「わざわざこんなスローペースでやる必要あんのか?」ぐらいに思っていたから、実際に「分からない!」という我が子を見て軽く衝撃を受けた。自分の小学生時代、「算数教えて!」って来た同級生たちはぶっちゃけ自分でやる気がないだけだと思っていた。本当のところはどうか分からないけど。

息子は自閉症スペクトラムADHDだけど、知能的にはむしろ高い方。だから余計に衝撃だったんだよね。


で、どうしたかって話が今日の本題。


発達障害児に勉強を教えてみる

ここでね、親自身が自分の感覚で、親子だからって感情に任せて「なんでこんなのもできないの?」「バカなの?」みたいな事を言っちゃうと機能不全家族、虐待、アダルトチルドレンの第一歩ですよねー。

『“自分の感覚”が正しくて全てで、正しい“自分の感覚”にはみんな従うべき』だと思っている人は毒親になるんだと思ってる。

私自身、今でこそ“他人の感覚”を意識するようになったけれど、もし自分が20歳前後で子どもを産んでいたら……と思うとゾッとしない。


悪い例はこれくらいにしておいて、さっそく結論。


どこで引っかかっていて、どのプロセスを通れば頭に入るのかを見極める。


はい、今回も当たり前の事しか書いてないー!


でもね、この、どこで引っかかっていて、っていうのが重要でして。

間違っても、「時計が苦手」「あまりの出る割り算が苦手」で片付けてはいけないと思うのですよ!



大分前に書いたやつだけど、私と息子の知能検査の結果比較↓

mai-ko.hatenablog.com


私も息子も作動記憶が苦手で、項目間差を見ればお互い20以上ある。基本性質はかなり似てますね。

でも息子は知覚推理(大人で言う知覚統合)が104、私は知覚統合が135。実に30以上あるその差は決して無視をしてはいけない。


つまり、私と息子は表面的には同じ、自閉症寄りの自閉症スペクトラム+ADHD傾向”という特徴を持っているのだが、私が当たり前のようにしている“感覚で捉えて理解する”、を息子は出来ないのだ。

つまり、私が「ははーん、全体授業で頭に入らないとしても、こういう考え方をすれば分かるでしょ!」と、したり顔で自分推奨のやり方をおすすめしても、息子には全然響かない、という事なのだ!


例えば「時計」。
時計の絵を描いて説明したりしたんだけど、どうも、“元の針の位置、進んだ先の位置、短針の時間読み、長針の分読み”を一時的にとどめておいて同時処理するのが苦手っぽい。そして知覚統合(空間把握)も得意ではないから、想像力、視覚で感覚的に捉えて、答えに置き換える事も無理っぽい。


例えば「あまりの出る割り算」。
息子はこれ、夕食のおかずを分ける時とかは普通に解くんだよね。でも知覚統合が低いせいか、計算式になったとたんに出来ない。でもこれは図を用いて理屈を説明したら出来るようになった。多分、掛け算の結果もしくはあまりの数を先にどこかに書き留めておく事で、時計の問題ほどには情報の同時処理をしなくてすむためだと思われ。


こんな具合にね。

息子がその問題を構成する、どの要素に引っかかってしまったのか、って事を考えると、おのずとどうすればいいのか見えてくると思うんだ。


……時計は要素別に分けた上で、九九暗記した時みたいに地道に覚えてもらうしかないんだろうなあ。


その人がその人である事以上に明確なものはない

えー、つまり今回、私が書きたかったのはですね。

とにかく本人を見て、本人の様子から判断しようぜ!って事なんですよ。


例えば「ADHDだからメモを取れ!」っていうのは、本人ではなく、情報とレッテルに基づいた暴論だと思います。


もちろん、メモを取るのは重要ですよ。汎用性も高いと思います。

それでもADHD=メモで解決!っていう方程式はステレオタイプすぎる。似た性質を持つ私と息子の間にさえこれだけの違いがあるのだから、共通の解決法のように謳うのはちょっと乱暴すぎやしないかい、と思ってしまう。昔そんな記事書いちゃったような気がするけど以下略。


綺麗事なんですけどね。私が言っているのは。


一人一人をじっくり見て、本当にその人に合った教育や環境を見出すには、時間も手間もお金もかかります。ぶっちゃけそんな事、やっていられないでしょう。

だから汎用性の高そうな情報に人が集まる。

でも人によっては、その情報、正解じゃないんです。そしてその情報を自分に適用できない事で、「やっぱり自分はダメなんだ」「自分はADHDじゃない別の何かなのか……?」とか、また迷走しだします。


万人向けの風邪薬を作るのも大事。でも個人的には、100人中80人にぼんやり効く風邪薬よりも、たった一人にめちゃくちゃ効く特効薬を作りたいと思ってしまうなぁ。


臨床とか質的アプローチをキーワードに、大学の勉強頑張ろうと思う。