【ギフテッドな日々】障害と天才の挟間より速報

動作性IQ141ギフテッド。そんな人の視点から見た世界をつらつらとつづっていきます。

自閉症スペクトラムの教育方針について答えを出してみる

 こんな私でも、子育てに不安を感じる時がある。

 それは大抵、息子の、周りに合わせられない自閉症スペクトラムの特性によるものだ。どうも息子の自閉症スペクトラムは、当初私が思っていたよりもかなり強いものらしい。先日も学校からの連絡ノートに先生から、『一時間目から給食の時間までの間、一切何もしなかった』との報告があった。給食の準備もしようとせず、「働かないと(準備しないと)食べられないよ」と言った先生に対し、息子は「飢え死にするからいい。別に食べたくない」と返したらしい。

 家でもそれに近い状態になることがある。しかし、一対一&静かな環境の家と、集団の中&うるさい学校では、息子のパフォーマンスに影響を与える環境として更に差があるのだろう。


 周りに合わせることを捨て、息子の自発的成長に賭けるのか。

 それとも自分を抑え、社会に合わせることを出来る限り促していくのか。


 テーマをつけるなら『自閉症スペクトラムの教育方針 社会性を取るか、個性を取るか』といったところでしょうか。

 個性を伸ばしてあげたいけれど、そのために社会性を犠牲にしてしまっていいのか。本人のアイデンティティを損なわず、社会性を身につけさせる方法はあるのか。どういった選択が本人の幸せに結びつくのか。そんな複雑なジレンマを紐解いていきます。
 ※自閉症スペクトラムの特性は個人差が大きいので、あくまで我が子の例として書きます。

子育てにおける命題と要素の抽出

 不安要素その①
 やらなくちゃいけないことがあったとしても、今、目の前の気になること(嫌だな、という気持ち含む)で頭がいっぱいになってしまう。優先順位をつけて、と言ってもダメ。気になりごとが頭を埋め尽くしてしまって、考えることすらできなくなってしまう。

 不安要素その②
 感情を口に出したり、身体で表現してしまう。これも我慢ができない。


 要素①『今やるべきことができない』は、社会においては、周りに迷惑をかけてしまうことにつながる。
 要素②『感情の発露』は、周りから見たら変な人、うるさい人、と敬遠されてしまうことにつながる。


 これがなんで子育ての不安につながるかというと、次に挙げる(私が思う)人生の命題、

 A・『生きていけるか』
 B・『本人が幸せであるか』

 が、息子の人生において達成されなくなるのではないか、という懸念につながるからだ。


 最近、不安要素①②の発現が顕著すぎて、命題A.B.が達成されないのではないかと不安なのである。というより、要素①②に何を掛け算して、どう導くことが正解なのかが分からないが故に、私の、息子への接し方がブレッブレなのである。

 この迷いを解消すれば自信を持って子育てに当たれる気がするので、差し当たってはこの難問を解くことに挑戦してみたい。

未来視からの逆算

 まず不安要素①②は、息子という集合pの要素なので、消してしまうことはできない。
 なので、要素①②を抱えたまま命題A.B.を満たすような係数を導き出さなければならない。引き算ではなく掛け算だ。要素①②への、必要最小限の係数を割り出すことができれば、子育ての迷いは解消される。

 この問いをもう少し分かりやすい言葉で言い直すと、『未来視からの逆算』といったところだろうか?

 本人が幸せに生きていける、という未来を前提として、その未来を導き出すために必要なのは何かを求めよう、という問いなのだ。


 では実際に、どんな係数が『幸せ、かつ、生きていける』を満たしてくれるのか。
 候補は色々あるけれども、ここでは実際に迷いながらも投入している(もしくはしてしまっている)要素を挙げてみることにする。


 “強制(我慢)、叱責、意見(自己責任)、承認”


 こんなところだろうか。
 次にこれらの要素が、必要か不必要か、必要ならばどの程度必要か、命題を満たすための必要条件になり得るか、を考えていく。


 “強制(我慢)”
 これは学校や集団生活など、社会に適応するための行動を本人に強制するということ。息子は現在、この強制に対する反発が強い。自閉症スペクトラムにとっての苦手を強制されているから余計にだと思う。強制しなければ学校に通わなくなるじゃないか、という理屈もあるが、強制しても学校での活動を拒否するようでは意味がない。そもそも親である私自身が、強制の末にずる休みなどを繰り返すようになり、最終的には落ちこぼれギフテッドとなり果てているのだから、強制が『本人が幸せであるか』に結びつくとは考えにくい。(ちなみに私自身は、“強制”という外的な力を我慢して何らかの幸せを得たことは一度もない)よって“強制”は命題の必要条件には当てはまらない。

 “叱責”
 感情が抑えきれず騒ぐ、周りに合わせることができない、といった場合に、親の方がイライラしてしまい、叱り、責めてしまう。これは言わずもがな、命題の必要条件には当てはまらない。知能の高い自閉症スペクトラムは、自分の内面が価値判断の基準、いわば世界そのものであるという感覚に加え、自分の行動が時に周囲の怒りや困惑を誘っていることにも気付いている。分かっているけれども直せない。直すことが正しいとも思っていない。だからこそそこを指摘し、叱責してしまうと、自分自身を否定されたと感じ、自虐、自暴自棄などの行動に発展してしまう。叱責は親がイライラを発散しているだけに過ぎないので、限りなくゼロに近くていいだろうと思う。

 “意見(自己責任)”
 叱責が否定されたところで、意見、はどうだろうか。叱責と違うところは、感情が混ざっていないところだ。ただ冷静に、自分はこう思う、ということを述べる。強制もしない。あなたの意見はこうだけど、私はこう思うよ。ということを口に出して表現するだけだ。そしてその後の選択は相手に委ねる。これは意外に勇気がいることだ。相手のことが大切なら尚更、相手がひどい事にならないように口を出したくなるのが人間の性なのかもしれない。
 しかしこの“意見と自己責任”のセットが意外と効果的で、宿題ができなかったら早起きしてやる、おもらしはしてしまうけれど自分でパンツを洗う、など、自分のことは自分で責任を取る、ということを身につけるのに大いに役立っていると思う。自己責任で生きていけるということは、周りや社会に依存しない。言い換えれば、自分以外に『幸せ、かつ、生きていける』を委ねないということだ。これによって自ら考える力が養われれば、社会の枠組みに頼らなくとも自力で幸せを見出し、生きていけるのではないだろうか。

 “承認”
 こちらは周りに合わせさせようとする“強制”とは逆で、個人を尊重する方針、と言えばいいだろうか。①『今やるべきことができない』②『感情の発露』これらを「そうなんだね」と、ただ承認してあげる。ただし、社会的に見てダメな部分を「こういうものなんだからしょうがないだろう」と開き直って周囲に押し付けるのとは違う。本人の性格特性によって周囲に迷惑をかけてしまうのは確かなのだから、承認はあくまで本人に対してだけ向け、周囲に対してはあくまで謙虚な姿勢でいることを忘れてはいけないと思う。この区分けがはっきりとできるのならば、社会との折り合いをつけながらも自己肯定感をはぐくんでいけるのではないだろうか。


 さて。

 この考察結果を見るに、“強制”と“叱責”が係数候補から排除され、“意見”と“承認”が残ることになった。


 こうして一つ一つ細かく分解していくと、“強制”や“叱責”は、少なくとも息子個人にとっての、幸せな人生には必要ないのではないだろうか。
 利点らしい利点と言えば、親が「周りに合わせていれば大丈夫」という安心感を得られる、ということくらいだ。

 そうはいっても、社会でよく見る“強制”と“叱責”という形式の教育を本当に排除して、息子という個人に任せてしまっていいのか。この根強い不安を解くためにもう一つ、別の角度からの式を用意しよう。

クリティカルシンキング

 係数候補を並べてみると、実は“強制”と“承認”、“叱責”と“意見”、が同時には成立しえない“対”になっていることが分かる。これはそのまま、社会的指導と個人的指導の関係になっている。

 両親揃っている家庭であれば、なんとなく父親が社会性を、母親が個性の受け入れを担当してバランスよく子供に接したりできるのかもしれない。また、自閉症スペクトラムと呼ばれるほどの性格特性でなければ、特にここまで掘り下げなくてもなんとなく社会と共存していくのかもしれない。

 しかしながら、うちは片親で、息子本人は自閉症スペクトラムだ。

 子どもの指針となるべき親が一人しかいないとなると、必然的に、同時には成立しえない“対”のどちらか一つを選ばなければならない。なおかつ、息子には社会的指導では思うような効果が得られない。どうしてもどちらかしか出来ない、と言われたら、迷わず“承認”と“意見”を選ぶだろう。


 正解や答えのない選択に、正解や答えを出す。これがいわゆるクリティカルシンキングというやつだ。


 クリティカルな答えは、最初にやったみたいに数学的に(無機質に)導き出すこともできるし、今のように論理の視点から(感覚的に)導き出すこともできる。

 この思考法にクリティカルシンキングなどという名前がついているのを知ったのはここ1~2年なので後付けになってしまうが、私は知らずにこのクリティカルシンキングで生きてきたため、行動を起こす時に迷いがなく、後悔もしないで済んできているようだ。


 そのクリティカルシンキングで今回、明確になったのは、『命題達成のために息子に必要なのは“意見”と“承認”』という答えではない。


 分かったのは、“強制”と“叱責”は『なくてもいい』ということだけ。

 しかしこの『なくてもいい』が重要なピースで、“強制”と“叱責”が『なくてもいい』なら対となる“意見”と“承認”に全振りしても問題がない、ということになる。

「“意見”と“承認”が必要で、“強制”と“叱責”はダメ!」という強い意見ではなくて、「“意見”と“承認”があれば命題(幸せと生きやすさ)の数値は大きくなり、“強制”と“叱責”はなくても大丈夫」という最良手。文章的にも違和感のない、ゆるい答えが出てくるのだ。


 ド・モルガンの法則ってすごい。

ニワトリが先かタマゴが先か

 今回の悩みの根幹には『個人があって社会がある』のか『社会があって個人がある』のかどちらだ、という問題があったように思う。

 究極、どちらを取るかと言えば、私は前者だと思う。そう思っていてもこれまで踏ん切りがつけられなかったのは、そこまで究極に追い詰められていなかったためと、社会性を捨ててそれが選択ミスだった場合のリスクが計り知れなかったためだ。


 時に巨大化した社会は適応できない個人を押し潰す。ではその個人は、社会全体のために黙って死ななければならないのかというと、そんなことはない。少なくとも抗う権利はあるはずだ。

 それに社会は私達が思っているよりも優しい。常に時代に合わせ、より良い方に更新されていく。ただ、規模が巨大すぎて個人の困りごとの細部にまで手が行き届かず、帳尻合わせが上手くいっていないだけなのだ。


 最後に、今回、私がこんなに長い検証を試みようとした理由を書いてみよう。


 私は、みんなが当たり前のようにやっている社会的教育の枠から外れることで、息子が将来、命題(幸せ、かつ、生きていける)を達成できなくなるのではないか、と不安だった。

 そうはいっても、冒頭に書いた通り、社会に合わせようとする強制も叱責も息子に対しては逆効果になるだけで途方に暮れていたのだ。

 挙げ句の果てには、「○○しないと××になるけど、それでいいの?」と、息子に、言葉に出しての決断を要求することで、自分の将来に責任を負わせようとしていた。言い換えれば、育てる自分が失敗した時に責任を負えないから、まだ判断に足る知識も経験もない子供自身に責任をなすりつけようとしていたのだ。なんという最悪な母親だろうか!

 そんな最悪な自分に気付き、このもやもやは早急に解決するべきとの判断に至った訳なのである。





 少し(かなり)気が早いけれども、これ、臨床の対象者さえ見つかれば放送大学の卒論材料にすらなりそうだな。

 最近のブログはかなり放送授業の影響を受けていると自分でも思う。

 ともあれ、この文章をまとめるためにかなりの時間を費やしてしまったから、またしばらくは集中して勉学に取り組もうと思う。