自閉症スペクトラムは共感が苦手、だけど……?
はいはーい、大学受講期間中につき、絶賛ブログおさぼり中のMAIKOだよ。
中間課題の小論文一つと、なんなら出題範囲の講義すら終わってない科目が一つあるけど、うっかりこんなところでブログを書き始めてしまっている。
何故なら、親愛なる某友人(と一方的に思っている)のつぶやきに“感化”されてしまったからさ。
という訳で、今日のテーマは『共感』
共感、ってなんだろね
親愛なる某友人(以下、彼)も私も自閉症スペクトラムだけれども、私は彼に出会うまで、“私達は共感ができない”という発想に至る事はなかった。
言われてみれば確かに、スポーツを見ていても「感動した!応援したい!」みたいな気持ちにはならないし、過去記事でも書いているように「家族っていいね!」を冷ややかな気持ちでやり過ごしたりしていた。にも拘わらず、今日まで私が“自分には共感能力が欠けているのでは?”という発想に至らなかった理由はなんなのか。
結論から言うと、“なくても特に生存に支障はなかった”から、なのかな。
幸い、私は両親に世間体を強要される事もなく、世間の型にはまらずに生きてこられた。自分が正しいと思うように、自分で選択して生きてくることができていた。
従って、絶対条件くらいのレベルで共感を強要される現場で、自分を押し殺し続ける必要はなかったわけだ。そういう状況が続くようならさっさと転職していたからねw
共感に関しては、「みんなはそう思うんだな。私はそう思わないけれど」みたいな感じ。
私が思う共感とは、相手の立場に立った上で、相手の気持ちを想像して、「分かる分かる~」って事だと思う。
自分がその相手に近い体験をしている時は、(ああ、ああいう時のこういう気持ちかー。あるよねー)みたいな感じ。共感って、そういう事じゃないのかな?
まぁだから何、って感じではあるんだけど。
というのは、自閉症スペクトラムの私達にとって、うわべだけの共感やどうでもいい共感があまりにも多すぎるからだよね。
私は自分に、共感能力が皆無であるとは思っていなかった。
だって小さい頃は、ひよこちゃんの形のゼリーがかわいそうで食べられなかったし、気の強いお友達に意見が言えなくて泣いてたりしていたわけだし。
でもそれって感受性の問題であって、“共感”とはちょっと違うよね。
一部の自閉症スペクトラム(ASD)が共感を苦手とするのは、共感が外的世界を通して行われるものだからだと思う。
自閉症スペクトラムにも豊かな内面的世界があるんだけれども、自閉症スペクトラムは実体的な、外的世界には興味が湧かない。自分の内側と外の世界に隔たりがあるから“自閉”なのだ。
“共感”をするには一度、外的世界を介さなければいけないわけだから、自閉症スペクトラムにとってはそこで無理が生じる。
彼が使った“感化”という言葉は、外界を通さない、いわば内面的世界同士の共感と言い換える事ができるんじゃないかな?
であれば、“感化”は“共感”の上位互換(ん?ちょっと語弊があるか)であるとも言えるし、我々自閉症スペクトラムが世間でいう“共感”を表現する際の、正しい言葉の使い方なんだと思う。
観察の先にあるもの
ふと、セラピスト時代の後輩との会話を思い出した。
会話の内容としては、嫌いな人間、考え方が違う人間、理解できない人間に対してどう接する?みたいな話だったと思う。
後輩は、切り離して考えると。ある程度の距離を置いて、自分は自分、相手は相手、みたいに接すると言っていたかな。
私は「世の中のあらゆる事象を一つ一つ理解して、“分からない”を潰して、全てを受け入れていきたいと思う」と返した。
すると、後輩は「大変じゃないですか?きりがないですよ」と。
後輩が健常か非定型発達かという問題はさておいて、“共感”ができない局面というのは、自閉症スペクトラムでなくてもあるわけだ。
彼は、「共感ができないから、これからは観察をするのだ」と言った。
私は、人が人を観察する、という表現が嫌いだった。
それは多分、「趣味は人間観察です」なんて声に出して言ってしまえる人間の傲慢さを、目の当たりにしてきたからだと思う。
観察、という言葉には、客観的な、自分事ではない、上から目線を感じる。
でもよくよく考えてみると、自分もしていることは一緒だなぁ、と思った。
「世の中のあらゆる事象を一つ一つ理解して、“分からない”を潰して」
これって、“観察”がないと成り立たないよね。
でもね、声を大にして言いたい。
私は、世の中のあらゆる事象を、
①“観察して”、
②一つ一つ理解して、
③“分からない”を潰して、
④全てを受け入れていきたい
と思うのだ。
“観察”だけでは足りない。それは事象の記述に過ぎない。
私が得意げに人間観察を語る人間を嫌うのは、その記述された事象を、結局は自分の価値観で判断している事が多いからだ。
②の“理解”をしようともせず、③を“分かった気になって”スルーして、他人を裁定している上から目線を見ると、なんだかなぁという気分になる。
完全な理解になど及ばないにしても、観察の上に納得のいく解釈を見出せれば(いわゆる了解可能の域まで持っていけば)受け入れる事はできると思う。仲良くしたいかは別として。
全てを受け入れてしまえば、自分が我慢する必要も、他人を変えようとする必要もない。ストレスとは無縁の、人生イージーモードである。
という訳で、超個人的には“観察”よりも“観測”の方がまだしっくりくるかなぁ。推し測る、という意味も込めて。
そこまでこだわる必要もないことだけど、言葉選びって難しいな。
完全に余談だけれども、私は“セラピスト”という言葉が好きではない。母国語(日本語)で表現できないカタカナ横文字はもやっとしていて表現的には変な含みも持つから、どうしても紛い物の香りがする。生存活動の保険として在職中にリラクゼーションセラピスト1級まで取ったけど、早いとこ認定心理士あたりで上書きしたいくらいで(完全に個人的な感想です。気を悪くした方がいたらすみません!
いわゆる『無知の知』ってやつだけど。
許せないものや苦手なものがある、っていうことは、本当の意味でその事象をまだ理解出来ていない、ってことだと思うんだよね。
いや、あるよ、私も苦手なもの。作動記憶。これもきちんと理解して療育とか受けたら向上するんかな。あとトマト嫌いとか、そういうのはまた別の話ね(←事象じゃない
とりあえずソクラテスは偉大だなという話ですよ。
分かっている気にならなければ、決めつけは起こらないし、知ろうとするし、理解しようとするよね。
“共感”の恐ろしいところは、分かった気になり、かつ分かってもらえた気になっちゃうところなんですわ。
どうしてって?
外的世界を通した時点で、あらゆる事象は社会的に認知される、共有されるものだから、(内部がどうあれ)表面的に双方が了解可能を示している時点で、「通じ合った!」という認識になってしまうからですよ。
なんで人間にはそんな機能が!とお思いになられる方もいらっしゃるかもしれませんが、これは群れを成して暮らす社会的動物(人間)の処理能力節約術なんですよねー。
だって大変だから!いちいち相手に正しいかどうか、細部まで確認を取って行動するのは。
だから自閉症スペクトラムが健常集団に混ざると、「そんなこといちいち聞いてくるな!」とか「その確認いる?」みたいに面倒臭がられちゃう。健常の彼らは共感を生かして、細かい内部はすっ飛ばして、効率的に結果が生まれるように内部活動を節約しているわけだから。
だから時に、フタをした内部で起こっている不整合に気付かず、真の意味での意志疎通ができずにトラブルになる訳ですねー。
色々言ったけど、“共感”だって人間社会を効率よく生きるために役立っている。
ただし心理学を始めとするあらゆる学問が発達した現代では、共感を意図的に誘発してきたり、情報があまりにも過多すぎて共感に振り回されたり、って事が多くなってきているとも思うんだ。
大切なのは、
①“共感”は節約の機能であるという事。
②“共感”と“共通認識”は違うモノであるという事。
③己の無知を自覚する事。
ってあたりでしょうかね。
最後に親愛なる某友人さん。勝手にブログに引用しちゃってすみません。
でも、いつも本当に楽しい“感化”をいただいております。ありがとうございます!