自閉症スペクトラムはかけ算ができない
はい。
大体みんなが忘れた頃にブログを更新するMAI-KOです。
今回もまた人を食ったようなタイトルですが怒らないで!
読み終えた頃には自閉症スペクトラム当事者が、「あぁー、はいはい!」くらいに納得できるような内容にはなると思います。多分。多分ね。
今回のテーマはズバリ、『定型発達と自閉症スペクトラムの認知の違いを数式化』です!
というわけで、今回のエントリーの発端から。
お互いにどんな世界が見えている?
Twitterの発達障害界隈は現在、定型発達者と自閉症スペクトラム者、互いの主張が入り混じっている状態です。
体感としては、
定型発達者「お前らの理屈は分かる。でもだからといって人を傷つけるな。周りに迷惑かけるな。自分は人の話なんか聞かないくせに、自分の事は理解しろなんてふざけんな」
自閉症スペクトラム「なんで曖昧な物言いをするのか。きちんと言葉にしなきゃ本当のところなんて分からないのに、しかも本質まで共有できてないくせに、察しろ、って求めてくるのなんなの」
という主張が多い気がします。
どちらの立場に立ったとしても、相手の言い分は納得しがたいですよね。当たり前ですが、自分が感じるようにしか実感って持てないので。
よく自閉症スペクトラムは宇宙人に例えられますけど本当にそれで、違う世界の生き物同士が同じ生活居住区内で暮らしていて、自分達の流儀を押し付け合っているのだから、そりゃ民族紛争にも発展しますよね。
日本人同士だから同じ言語を使っているハズなのに、どうもその言葉の捉え方が違う。
捉え方が違う=認知が違う、なのですが、いったいどう違うのか。具体例とか、こんな風に感じてます、みたいな例はいくつも出てくるんですが、それらを包括する、認知の仕組みを語るための枠組みがどうしても見つからなかった。
そんな時、ふと(メタ認知的な事を言えば多分、レヴィンの公式を見たあたりがきっかけで)二者の認知を数式で表して比較できないかと思いついたのです。
定型VS自閉症スペクトラム 5分でわかる認知の違い
認知心理学は比較的近代になってから生まれた分野で、コンピューターの仕組みに着想を得ています。簡単に言うと、人間をコンピューターとみなして入力や出力の関係を記述するのです。そう、みんな大好きロジカル思考です。
まずは例え話から、自閉症スペクトラムの人がどういう認知の仕方をしているか記述してみましょう。
酸いも甘いも、という言葉があります。
が、実は多くの場合、自閉症スペクトラムの人にまとまりとしての(酸いも甘いも)という概念は存在しない。
(酸い)も(甘い)も、です。
我々自閉症スペクトラムは酸いと甘いを分離して取り出しますが、酸いも甘いも含んだまま取り扱うのが定型さんの能力です。
自閉症スペクトラムはこの、“含んだまま取り扱う”、というのが分からない。
x(酸い)とy(甘い)があって、それが両方あるよ、っていうのは分かる。x(酸い)とy(甘い)を混ぜたら甘酸っぱくなる、というのも分かる。
でも、(酸いも甘いも)ってなると途端に、なんだよ。???ってなっちゃう。
あ、今、頭に霧がかったみたいにもやもやもやぁ~、ってなったあなたは立派な自閉症スペクトラムですね。おめでとうございます!
……と、まぁ、私は自分で読んでみて、なんだか気持ち悪くなりました。なんか落ち着かないというか、収まりが悪いというか。
この例で何を言いたかったのかというと、定型さんはこの(酸いも甘いも)を自然に使いこなせるんです。
いわば、式を式のまま扱う能力ですね。
ここポイントね。実数じゃないんです。変数でもないんです。
関数式なんですよ。
……ちょっと、今までもブログで勝手に数式っぽいの書いたりしてたんだけど、記号論理学、っていう学問体系があるの昨日知りまして。
今日も勝手に自分ルールで書いちゃうけど、意味は通じると思うので大目に見てくださいな。
話を元に戻しましょう。
自閉症スペクトラムは式の作り方が足し算です。
例えば、相手が言った言葉そのものをx、状況をy、表情や間の取り方、声音、態度等々、その他の要素をaで表すとしましょう。
(x+y+a1+a2+a3+a4……)=自閉症スペクトラムが受け取る結果
aにはマイナス数値のモノも存在しますが、基本的に構造は、足し算、足し算、足し算……です。
それに対して定型さんは関数式を使います。
(xy【a1,a2,a3,a4……】)=定型さんが受け取る結果
みたいな感じ。多分、マイナスは絶対値みたいなやつで処理してる(適当)
自閉症スペクトラムも定型さんも、使っている要素自体は同じなんです。
でも認知が違う。認知に使っている、式の構造が違う。
定型さん基準で考えると、自閉症スペクトラムは定型さんが関数で捉えているところを、実数の積み重ねで捉えようとするんです。
最初に言った、『酸いも甘いも』問題はまさにそれですね。
定型さんからしたら……というか、多様すぎるこの世の複雑な問題においては、その式の答えがどうだ、というのは実は全く問題ではないんですよ。
ある物事に対して、本当に正確に答えを出そうと思ったら、到底理解の及ばない数字になってしまいます。
関係する要素を、言葉や態度はもちろん、その時の状況、自分の虫の居所、相手の家庭環境、人格形成に関わる生い立ちに至るまで、一つ残らずかき集めなくてはならないからです。
膨大な要素を含んだ上での、関数式ですという認識さえあればいいんですよ。
それに対して、自閉症スペクトラムは実数での式ですから、答えを出そうとする。
当然、人間が認知できる情報量にも限界がありますし、同時に処理できる情報量にも限りがあります。
例えば相手が何か、自分を攻撃してくるような発言をしたとします。
すると自分が処理できる範囲での実数を使って式を組み立てます。
で、実数だから必然的に答えが出てしまいます。
例のように、自分を攻撃されて答えがマイナスの数値で出てしまったとしたら、それはもう確固たるマイナスなわけです。
嫌な思いした。傷ついた。間違っている。そういう感情しか残らないわけです。
自閉症スペクトラム、省みる
俗にいう“空気を読む”とかの“空気”って、この関数の事なんですよ。多分。
自閉症スペクトラムが「表情や空気が読めないわけじゃない、でも共感というとちょっとよく分からない」というのは、実数に変換して事象単体としては理解はしているけれど、関数のままでは受け取れない、という事なのではないかなと思うのです。
というわけで、今回は定型さんと自閉症スペクトラムの認知的仕組みの違いを記述してみましたが、ちょっとこれ、先行研究探してみてもいいかしら。方向性決めてブラッシュアップして卒論に使いたいくらいなんですけども。ちょっと、(酸いも甘いも)にもやもやを抱えた方は一報ください。じっくりお話を聞いてみたい。
以下、蛇足的補足。
心理学の初歩で習う概念に、認知的倹約家としての人間、というのがあってですね。
ここまでに記述した通り、人間の認知処理機能には限界があるので、人は出来るだけ認知処理を簡素化・省略化するんですって。
定型さん達が得意な“関数を関数のまま扱う能力”もまさに、認知的倹約の一種ですよね。
自閉症スペクトラム当事者はこの認知的倹約を「本質をついていない」という理由で嫌う傾向があると思います。まぁ私もそうなんですけど。
確かに認知的倹約は本質を逃してしまう事もあります。関数を関数のまま扱っていると、その中に埋もれた大事な要素そのものに気付かない、という事は普通にありえます。
ただね、認知的倹約はただの思考停止かと言えば、決してそうではないんですよ。
現代は、特に昔に比べて、ものすごい情報量で溢れています。
その圧倒的情報量から効率的に取捨選択するためには、認知的倹約能力が必要不可欠なのです。
自閉症スペクトラムは本質を見るから雑多な情報には騙されない……確かにそうでしょう。ただその反面、木を見て森を見ず、という事もあるのではないかと思います。実数で積み重ねていく認知スタイルの自閉症スペクトラムは、基本的に視野が狭いのです。本質を大事にするあまり、自分が想像もしえない世界に埋もれているかもしれない、有用な情報に目を通す事が難しい。
しかも、“自分自身がここに在る”という事は自身にとって絶対的に信頼のおける“実数”なので、自分自身の思う事に過度の信頼を置きがちです。
そして、自分が見たいものだけに偏っていく。
あなたも。私も、ね。
それは決して悪い事ではないし、突き詰めれば赤木しげるみたいになれる才能でもあるのですけれども、自分にそういった思考のバイアスがかかっている、という事を自覚しておいて損はないかなと思います。
認知的倹約家の功績とは?
そしてね、私達自閉症スペクトラムが嫌う認知的倹約。
実はこの能力は、現在の世界の秩序を保つためにも役に立っているんですよ。
例えば諸外国とのお付き合い。
単純な足し算だと、プラス要素よりマイナス要素の方が大きかったら「戦争じゃぁ!経済制裁じゃぁ!そんな国は滅びろ!」ってなるわけじゃないですか。というか実際、ネット上にはそんな声がいくらでもあがっ(ry
でも実際にはそんな風にはならない。
何故なら、非難轟々に晒されている政治家さん達はその実、一般ピーポーには見えづらい高度な関数を使って外交を行っているから。
式を式のまま扱って、独立変数(主張が食い違う問題)は消えずに残ってしまうけれども、共通項(共通の問題)は消せるようなやり方をしているわけですよ。
ここまで大それた例でなくても、態度に問題はあるけどお金はたくさん落としてくれるお客さんをうまく囲って利益を上げるとか、部長からの要求と平社員からの不満を上手に取り持つ敏腕課長とかもそう。
それこそ“酸いも甘いも”ひっくるめて、全く属性の違う変数もまとめて扱うのが関数使いの真骨頂ではないかと思っているのです。
自閉症スペクトラムの生きる道
進化心理学的な考えで言えば、認知的倹約は社会的動物としての進化やテクノロジーの発展に対する適応として捉える事ができます。
その延長線上で考えると、少し過激な表現になってしまいますが、自閉症スペクトラムは個性とかじゃなくて障害であると認めざるを得ない。
ただ、そう結論付けるのはもちろん早計というもので。
自閉症スペクトラムは人類の多様性の中で、新規開発&反証機能を担っている。と考える事もできます。
認知的倹約の中に埋もれてしまいがちな真理や新たな要素を発掘したり、その省略認知が本当に整合性のあるものかどうかを検証したりする役目ですね。そういう人がいないと、文明の維持はできても発展はできません。また、大多数に正しいと信じられてきた事が間違いだった時に、誰もそれに気付く事ができません。
だからといって、自分が正しいと思う事を周囲に押しつけてもいい、という事にもなりません。
自閉症スペクトラムにも神がかった才能を発揮したり、コツコツと長きに渡る仕事をこなす事が出来る人がいる一方で、俺様とかモラハラとか周りに迷惑をかける層がいます。
もちろん、定型さんにも前述したような素晴らしい関数使いがいる一方で、同調圧力に乗って人をこき下ろすような層もいます。
これは特性の問題というより、知性や教養の問題だと思うのです。
世界の多様性の中で見た時に、自分には何が足りていないのかを自覚するのは役に立つと思います。
自分には足りていない部分がある、という事を受け入れさえすれば、少しは優しく、謙虚になれるんじゃないかな。私も、少しはましになった……と、思う。多分。
その後はそのまま突っ走って赤木しげるになるもよし。
教養を身につけて賢者に転職するもよし。
……そう。今、私が考えているのは、自閉症スペクトラムが定型さん的認知的倹約を身につける、もしくは定型さんが自閉症スペクトラム的要素分解を身につけたら、賢者になれるんじゃないかって事。
今回の認知の数式化は、賢者になるための第一歩だったりするわけです。
というわけで、今回のお話はここまで。
とりあえず、今期、記号論理学の授業取って出直してきます。