自閉症スペクトラムの人に読んでほしい共存社会と教育の話
ASDと教育方針
大学の勉強のいいところは、“好きな事”を漏斗式に絞り込んでいく事ができるところだと思う。
誰にでも、ぼんやりと“好きな事”、ってあると思うんだ。
別に数学が好きとか英語が好きとかそんな分かりやすいものに限らず、例えば、ゲームやマンガみたいなのから始まり、スポーツ、パズル、買い物、園芸、旅行、なんでもいいんだけど。
そういうカテゴリーから、更にやりたい事を絞っていけるのってすごくいいと思う。
私は“目に見えないものの仕組み”が好きだ。
例えば、人の心。
例えば、社会の仕組み。
例えば、成長の過程。
ただ、好きだけれど、漠然としている。それを勉強している、といったところで「だから何?」という話である。
ゲームが好きで、1日何時間もやってます!「だから何?」というのと一緒なのだ。
“ただやりたい事をする”“好きだからやっている”というのは、結局、何がしたいのか自分でもよく分からない、という事態に陥ってしまう。
例えば旅行。
最初は目的もなく、行きたいと思った土地をふらふらさまようのも楽しいだろう。ただ、いくら好きな土地に来たからと言って、いつまでも目的もなく、ぼんやりふらふらしているだけだとそのうち飽きちゃう、って事なんだな。
でもふらふらし続けていて、その土地の人や文化や空気に触れて、「ああ、ここは居心地がいいな」と思ったら、その土地の名所に行ってみたり、行きつけのパン屋ができたりBARができたり、なんなら永住しちゃったりすると思うんだ。
大学の勉強はこれに似ていると思っていて、私は自分の単純な興味から、“目に見えないものの仕組み”である心理と教育のコースを選択した。
すると心理学(目に見えないものの仕組み)という大きなカテゴリーの中にも更に細かな分類があって、勉強を進めていくにつれ、漠然としたいわば“業界全体に対する好き”を、“これが好き”に変えていってくれるんですね。
ぼんやりとした目的じゃどこにも行けない、何の発展性もない、というのは確かにそうで、「イギリスに行きたい!」っていうのと、「イギリスのグリニッジ天文台に行きたい!」っていうのは全然違うと思うんですね。
我々自閉症スペクトラムは、目的(全く興味のない外界)が先にあって、自分達(内面)をそこに合わせるのが多分、相当難しい(というよりそれはもはやアイデンティティの崩壊に近い)ので、遠回りに感じるようでも、自分の価値観を辿って目的地を見出す積み上げ式を基本とした方がいいような気がします。
好きな事をとことんやってみるのがいい、っていうのはそういう意味なのかもしれない。
もちろん、とことんやるにしても、最低限の社会との共存は維持した上でね。
自閉症スペクトラム(少なくとも私)の視点から言い換えれば、どこに行きたい&どうなりたい(目的、結果。外界的作用)に大した意味はなくて、どうしたい(過程。内面的作用)が先に立つので、興味を突き詰めて、やりたい事をはっきりとさせた方がいいんじゃないかな?
具体性が出れば、やりたい事をやっているのに結果も出て、結果的に社会が求めるものとも合致する。
必要なのは、興味の対象を広く深く学び、具体性に落とし込める環境を知る事だと思うのねん。
ASDな私の実際の再教育ルート
“目に見えないものの仕組み”が好きな私は→
小中高で学業の退屈さに見切りをつけ→
生活(実践)の中で色々と思考&解決を繰り返していたが→
体系化された心理学との照らし合わせをしたいと思い→
大学で心理学を学びはじめ→
その心理学の領域の中で何がしたいのか分かり始めた(new!)
前述した長いまえがきを自分に当てはめるとこんな感じ。
実は私、大学に入る前は心理学に猛烈な偏見があったんですよ。
スピリチュアル的な女性が好んで、簡単にカウンセラーとか名乗って分かったような気になっている、現実には何の解決にもならない、毒にも薬にもならないようなシロモノ……みたいなw
それだけ私の目につくところに、毒にも薬にもならない心理テストとか、うわべだけを流用している自称セラピストが多かったんでしょうな。
でも曲がりなりにも学問として確立されているのだから、と、心理学なんぼのもんじゃい!くらいの気持ちで大学に申し込んだら、これが面白いのなんの!
まず、学問=体系化、ってのがいい。
心理そのものは目に見えなくて、ぼんやりとしたものだけれど、それを明確に言葉で切り分けているのがいい。それも世間で多く目の当たりにしてきたようなおおざっぱなカテゴリー分けじゃなくて、素材レベルにまで掘り下げているのがいい。
そんな風に、素材の部分まで掘り下げて仕組みを解説してくれるから、積み上げ式が好きなASDにはぴったりの学習法ですよね。
で、ひとくちに心理学といっても実に様々な領域がある事が勉強するうちに分かってきます。
厳密に住み分けができている訳ではないので最初はちょっと混乱しますが、色々な講義を学ぶうちになんとなく分かってきます。
心理学、というぼんやりとしたカテゴリーが、だんだんと細分化され、具体性を帯びてくるわけですね。
で、約8か月大学に在籍して、私が「やりたい!」と思ったのがこれ。
進化心理学の観点から、
社会心理学を紐解き、
臨床心理学で個々の事例を解決する。
ちょっと分かりづらいですね。
一つずつ解説させていただくと、進化心理学とは、人の心理メカニズムは生物学的適応(つまり進化)の結果、生まれたものであると仮定して研究を行う領域です。超ざっくり言えば、人の心理は生物として生き延びるのに必要だったからあるんじゃないの?というアプローチ。
次に社会心理学とは、個人と社会の相互的影響関係を研究する領域です。ここでいう個人と社会は、いわゆる一般社会、というのに限らず、自分対他人、自分対他、という構図全てを含みます。
最後に臨床心理学は、実践の心理学ですね。上記2つの観点をベースとして、色々な人の発達障害や適応障害を解決していけたらベストなんじゃないかい?と思っている訳です。
もちろん、上記以外にも発達心理学とか教育心理学とか頭に入れておかなければならない事は物凄くあるんですが、心理士の卵としての私の基本スタンスみたいなものです。ぼんやりとした興味の中から軸が決まった、という感じですかね。
そうなると必然的にやりたい事の方向性が決まる訳です。ぼんやりとした中で現状維持→飽きてまた別の何かを探す、とならず、より高次に発展していく訳です。
ASD視点で考える共存社会
で、私が進化心理学と社会心理学をベースに置きたがる理由をちょっと語らせてもらいたい。
俺はお前を全肯定 ~進化心理学~
上記で説明した通り、人の心のメカニズムが生存に必要な進化の末に生まれたものであるならば、そこには必ず、そういう心理になった理由が存在するはず。
持って生まれた性質(健常、ASD、ADHDなど)と、後天的な影響から構築される心理メカニズム、双方に了解可能な理由があるはずなんです。
了解可能という事は、周囲に認められるという事。周囲に認められるという事は、存在を世界に承認されるという事です。
これはどういう事なんでしょうか?
世界中の誰しもが、アイデンティティを見い出せる、という事なんですよ。
心とは人間が、ひいては人類が生き延び、発展していくためのシステムなんですよ。
めっちゃ仮説でモノ言っちゃいますけど、健常者だってね、その時代、その文化でより多くの数が生き延びている多数派だから健常と呼ばれているだけ。非定型発達には変化に対応したり、進化を促す役目があるんですよ。
感情とは、持って生まれた性質を元に、生育環境から与えられる反応と照らし合わせて、より生存確率が高くなるように形成されていくものだと私は思っています。
コンピューターとは違う不確定なこの世界で、ある一つの生命が自分にとっての正解(=より生存確率の高い方)を選び取るために発達したものだと思っているんですよ。
機能不全家族の下で育った子供が実社会に適応できずに苦労するのは、本人にとって歪んだ環境であった幼少期を生き延びるために形成した感情システムが、実社会においては全くマッチしないから。
その形成済みの感情システムからなかなか抜け出す事ができないのは、そうしなければ生きられなかったかもしれない、というほどの成功実績と強迫観念があるから。
そんな風に、人間の心理をいち生物の生存システムとして考えてしまうとなんとなく冷たい感じがするかもしれませんが、実は逆です。全肯定ですよ。
あなたが持って生まれたものも、生まれてから築いてきたものも、これから新しく築こうとするものも、もしかしたら“最善”ではなかったかもしれないけれど、人類全体の進化の流れで言えば全て正しいという事になる。
過去の自分と全く違う考え方を取り入れたからといって、それがこれまでの自分自身を否定する事にもならない。何故って、過去の状況においては事実それが生き延びるのに必要なシステムだったのだから。
それに加えて、現代はかつてないほどの速さで環境が変わり続けている。生物学的適応の歴史を見ても、生き延びるのは環境に対応して進化し(変わり)続ける事のできる生物なのではないでしょうか。
私はあなたとは別人格 ~社会心理学~
進化心理学ベースで全人類を全肯定した上で、次に出てくるのが社会心理学です。
先にも書きましたが、個人と社会の相互的影響を研究するのが社会心理学です。ここではまたまた超ざっくり、自分以外の全てと上手にお付き合いしていきましょう、という時に役に立つ考え方を提供してくれる学問とでもしておきましょう。
ただしここでは、自分対他人、1対1、で起こる人間関係の問題には触れません。
個人対個人の問題は、進化心理学の考え方で辿った、個人の性質と環境適応の結果同士の問題なので、相手や自分をできる限り理解したうえで対応する(和解する、距離を置く、拒否を示すetc.)しかないと思うからです。
ここでの社会心理学が示してくれるのは、文字通り『社会』。
会社であれ、家庭であれ、何らかのコミュニティであれ、集団は『社会』を形成する。
ちょっと不思議な話ですが、『社会』とは単なる個体同士の寄せ集めではなく、『社会』(=集団)になった時点で、個々のそれとはまったく別の“社会的性格”が生まれるのです。
例えば、夏の砂浜でお城を作ったとします。
するとそれは“単なる砂の集合体”ではなく、“お城”に見えますよね。
………
めっちゃ当然の事を言っているようですが、そういう事なんです。
家族にしろ、会社にしろ、何かしらの目的をもって複数の個が何かを形成する。その構成個体数が多く、また形成イメージが強いほど、それを構成しているある一つの個の性質とはほぼ無関係の、“社会全体が持つ性格”が表れるのです。
それがその社会における“常識”として個を支配したりする。
だから人は群れとして、集団として団結できるのですね。
集団が大きければ大きいほど、結束が強ければ強いほど、人は大きな事を成す事ができます。砂浜の砂だって一握りではお団子がせいぜい。お城はとても作れませんからね。
半面、その社会に属する多くの個が「しんどい」と思ったとしても、全体支配の魔法にかかっているようなものなので、「そういうものだから」と思考停止してしまう。
ここがね、健常とASDの違いが顕著に表れるところかもしれないですね。
自閉症スペクトラムはその名の通り内に閉じていて、自分以外とつながる、という感覚が非常に乏しいので、良くも悪くも全体支配の魔法にかからないのです。
……とまあ、こういう事を考えていくのが社会心理学なのですが、こうして自分と社会との関わりや仕組みを紐解いていく訳です。
現実のあなたと話す事に意味がある ~臨床心理学~
で、上記のような理屈をただこねていただけでは何の役にも立たないので、臨床心理学の出番となる訳です。
だって一人一人、持って生まれた性質も育った環境も、その結果得た性格や感情システムも、全て違うんだもの。
いや、賢い人なんかはこれ読んだだけで色々理解して自己完結しちゃうのかも知んないけどさ。むしろそうしてくれたらいいと思って、こんな文章量になってしまっているのだけれど。
私が……というより、人が、同じ人を臨床したい、なんて何様だと。おこがましいとすら思ってしまう。
そんな風に思ってしまうのは、私がASDだからかもしれない。
誰かのために、なんて言えない。そんな感情、ないのだから。結局自分がそうしたいからそうしているだけなのだから。
ただ、私は誰かの話を聞きたいと思う。
苦しんで、しんどくて、それでもあなたがどうやって生きてきたか、本当は何が欲しかったか、今はどんな壁にぶち当たっているのか、聞いてみたいと思う。
私は生身の人間が好きだ。
社会には上手に適合できていないけれど、それでもなんとか自分を保って生きている、不器用で人間らしい人たちが大好きだ。
そんな人たちのそれぞれの物語を、聞いてみたいと思うんだ。そんな理由で心理士になろうとしている。
“社会的性格”と上手に共存できている人たちは、素晴らしいと思う。私が心理士になったところで彼らと話す機会はないだろうが、人間的に素敵な人が多いので、私は彼らの事も好きだ。
逆に“社会的性格”と同化して、社会的な正義を振りかざす人たちに対しては、思う。器用な彼らは一体どこに、か弱い生身を隠しているんだろうかと。
実はね、一番しんどいのは彼らなんじゃないかと私は思っているんだけれど、仮に機会があったとしても、まだ彼らの話を上手に聞ける自信がないな。
………
最後、ちょっと散文的になってしまったけれど、書きたい事はあらかた書けた気がする。
元々は『暗黙の了解的なコミュニケーションはなぜ生まれ、ASDはなぜそれを理解できないのか。そしてそんなASDはどうすればいいのか』ってとこから始まったエントリーだったんだけどどうしてこうなった。