【ギフテッドな日々】障害と天才の挟間より速報

動作性IQ141ギフテッド。そんな人の視点から見た世界をつらつらとつづっていきます。

人生の守破離について

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 “守破離(しゅはり)”という言葉がある。
 守破離は、日本での茶道、武道、芸術等における師弟関係のあり方の一つで、Wikipediaによる要約はこうだ。

まずは師匠に言われたこと、型を「守る」ところから修行が始まる。その後、その型を自分と照らし合わせて研究することにより、自分に合った、より良いと思われる型をつくることにより既存の型を「破る」。最終的には師匠の型、そして自分自身が造り出した型の上に立脚した個人は、自分自身と技についてよく理解しているため、型から自由になり、型から「離れ」て自在になることができる。武道等において、新たな流派が生まれるのはこのためである。

 人生もこの守破離に当てはまるところがあって、最近、もしかしたらこの「離」の段階まで来たのではないかと思えてきたので書き示しておくことにする。

ひたすら「守」った10年、「破」りつづけた20年

 物心ついた時から、多くの人は社会に適応するよう育てられる。
 私も隠れギフテッドなりに、親の言いつけや社会のルールに従って生きてきた。そしてそれが正しいことだと思ってきた。

 そしてその後20年、自分に合った、より良いと思われる型を求めてあらゆることを試してきた。自分の中にある正しさを具現化するために、自分の思うように生きてきた。

 これが長かった。

 なんせ20年である。

 20年かけて構築された価値観はとても強力なものになった。これが“自分”であると、心の命じるままに、周りを見ずにひたすら突っ走り続けていた。

 具体的に言えば、自衛隊に入り、居酒屋を開き、結婚、出産、離婚を経て、リラクゼーションセラピストの資格を取得した。こうして羅列してみると節操ないのも甚だしいが、やりたかったことは全てあらかたやり尽くした。

 そして次に何をやろう、と思った時に、行き詰まった。

 次は何をしたいのだろう? したいことがなくなったら、私はどうやって私であり続ければいいのだろうか。と。

型から「離」れる

 母親になったことで自由が利きづらくなり、次に目指すものもなくなった私は、私が私であるために、理由をつけて無理矢理やりたいことを探していた感がある。理由と、目的と、証明がなければ、私という“型”でなくなってしまうと思っていたのかもしれない。

 時間がない中、自分がやりたいことを無理矢理詰め込んでいるうちに“うつ”になり、自分を見つめ直す機会を与えられた。

 ギフテッドという自分の特性、周りとの関わり方、あらゆるものを見つめ直した。


 余談だが、カウンセリングを受けたり知能検査(WAIS-Ⅲ)を受けたりすることは、人生における自分専用の攻略本を読むようなものだと思う。

 ポイントは“自分専用”だということだ。

 RPGで例えるなら、「あなたは今、LV28の魔法使いで、これとこれとこれの魔法を習得していて、こういったステータスです。次の目的地に進むにはA、B、Cのルートがありますが、あなたのステータスならCルートが向いているんじゃないでしょうか?」といった感じで、行き詰まった時、次に進むためのヒントを与えてもらえる。


 その結果、私は自分の型の正体を知り、知ったことで型から「離」れることができた。ような気がする。

 型というのは自分自身の輪郭というか、自分自身と外を区別する枠組みのようなもので、型があるからこそ自己を確立し、他者と区別をすることができる。人はそれぞれ、生きていく中で自分なりの型を持って生きていく。そのせいで時に、いや、割と頻繁に、他者との対立を生むこともあるのだろう。

 その型から「離」れるとはどういうことか。

 まず一つに、こだわりがなくなる。
 型を持っているが故に生じるこだわりがないので、他の、型を持っている他人と衝突することがなくなるのだ。

 かといって、自分がなくなるのとも違う。
 今まで自分を形成してきた型は既に身に沁みついているので、こだわらなくても心のままに生きることができるし、とても自由なのだ。

 まだ人生の守破離の「離」LV1になったばかりなので、ここまで言ってしまってもいいものか分からないが、例えるなら仏や悟りの境地に近いのかもしれない。

例えるならば、飄々と生きている好々爺のような

 人生の守破離の「離」を迎えた結果、どんな生き方になるのかというと、何物にも縛られず、腹を立てることもなく、ただ自分としてありのまま生きていくことになるのだと思う。

 型という支えがなくても個人として立脚できる、とでも言えばいいのだろうか。

 自閉症スペクトラム傾向含みギフテッドの私としては、これまでと比較すると、世界との一体感が半端ない。

 物理的事象に興味が湧かないのは相変わらずだけれども、それを面倒でくだらないと思うことはなくなったし、かたくなに自分である時間を守ろうとすることもなくなった。自分らしく生きる、自分の生き様を証明する、生きていくためのしがらみから解放された気分なのだ。

 日々成長して生きていきたいとは思っていたが、まさか本当にこんな日が来るとは思わなかった。

 考え方も感情もガラッと変わってしまったが、私は私のままという、とても不思議な感覚だ。

 今はまだ、これが一過性のものでないことを願いたい。