小学校教員いじめ問題から加害者の心理について考えてみる
神戸の小学校教員いじめ問題のニュースを見ていて、どうしてこういう事が起こるんだろうな、って思っていた。
内縁、再婚の夫による子どもの虐待事件もそう。ようはいじめだよね。弱いものを叩く、いじめ。
だってさ、普通に考えれば異常じゃないですか。
こうしてニュースになった時、誰もが憤りを感じ、加害者には大バッシングを浴びせます。つまり、大体の人はいじめが悪いことだって分かってる訳じゃないですか。
さらに教員いじめのニュースに関しては、加害教師は生徒たちに対しては「いじめはダメ!」的な指導をしていた、と。
そうなると、加害教師たちは“表の顔と裏の顔を使い分ける最低の悪人”のように捉えられてしまう。
捉えられて“しまう”、という表現を使いましたが、別に私は、加害者側を擁護するためにこの記事を書いている訳じゃないですよ。
そうでなくて、加害者の人格がクズだったから、というのは、いじめ発生の要因として的を得ていないんではないか?というのが、今回の記事のテーマなのです。
いじめのメカニズム(仮定)
結論から言いますと、いじめてる側ってまず、いじめている自覚がないような気がするんですよね。
いじめている側は社会的強者です。これは絶対。
教員いじめの例で言えば、加害教師たちは校内では中核的な存在。子を虐待するのは、子どもを導くべき親。教室で起こる多数対個人のいじめは数の暴力ですよね。
そういう加害者側って、おそらくね。
いじめはいけない、というステレオタイプの情報は持っているけれども、自分が行っているそれがいじめだという発想にはならないんですよ。事が公になって、誰かに指摘されるまで。
どうしてかって?
自分が正しくて、相手に非があるからですよ。
加害者の感覚の中ではね。
例えば、仕事が効率よくできない。言いつけを守れない。友達とうまくコミュニケーションが取れない。
人間、得手不得手があって当然ですよね。
でも相手の苦手とする部分が、たまたま社会的強者にとっての“できて当たり前”であった時、“正しい自分とできないアイツ”という見下しが発生する訳ですよ。
見下される側から言わせてもらえば、違う人間ですから、どうしても修正できない苦手があったり、価値観も違うからそもそも修正するべきものではないと思っていたりする。極端な話、生得的な問題(例えば外見とか)だったりしたら、それこそ修正できるものではないですしね。
このまま社会的強者の中で、“正しい自分とできないアイツ”が定着してしまうとどうなるか。
“アイツ”はもはや、自分とは違う生き物になってしまうんですよ。
自分とは違う生き物だから、“アイツの立場に立って”とか、“もし自分が同じ事をされたら……”とかいう視点が消え失せてしまう。
自分の方が正しいのだから、自分とは違う生き物の方がこちらに合わせるべきだろう、という傲慢な考えになってしまう。
これがいじめのメカニズム(仮定)だと思うんだけれど、どうだろうか。
社会心理学も面白いよ
実は私自身、ついこの間まで一月ほど、仕事でお客さんに軽くいじめられてたというか見下されてたんだけど、これも数の暴力みたいなところがあってね。
だって私を見下したお客さんの一人一人は、ある日の前日までは普通におしゃべりしたり、なんなら昔、一緒に遊びに行ってた人までいたんですよ? その人たちが集まってグループで行動するようになってから、ちょっと変わってしまった。
そう、集団になって価値観を共有する事で、彼らは“強者”になったのです。
確かに、私の立場がお客さん同士→店員になってから、発達障害的な部分が目立ち、ご迷惑をかけてしまっていました。おそらくはそれで“ダメな奴”のレッテルを貼られてしまったのでしょうね。
あ、ちなみに今はもう大丈夫です。一時期の気まずさは解消されましたし、当時は店長や主任がめっちゃ味方になってくれました。ありがてぇ……
……とまぁ、環境や状況が、本人の自覚なしに人間性を変えてしまう、って事も普通にあるんですよ、っていう話でした。
各地で起きているいじめや今の体験談もそうだけれど、自分と環境、自分と他者、という“関係性”の中で起こる心理変化は『社会心理学』の分野ですね。
昨今の社会病理は、そういう心理的な面から紐解いていって、世間の共通認識を変えないと解決しないんじゃないかなぁ。
そもそも、“正しい自分とできないアイツ”思考だって、自分が正しい側であることを自他に認めさせるための(そして安心するための)思考だと思うし、弱者強者の分類以前に、人は皆、認められたがっているんだと思う。
もっとこう、『多様性』という言葉が正しい意味で広まるといいよね。得意も苦手も同じも違うも全部ひっくるめて、「多様性の中の一つの生物、MAIKOです!」みたいな。そんな感じ。
そんなみんなの自己紹介、いつか聞いてみたいと思う。