ナイショの未来予想図
※前置き
世間に大分遅ればせながら、養老孟司氏の『バカの壁』を読んで、読み終わるまで毎晩、一人でこっそり泣いていた。
多分、普通に考えて、『バカの壁』は読んで涙するような内容ではないと思う。でも私の頭の中にあって、上手な言語化もその機会もなかった二元論の有用性だとかを、大学の教授が分かりやすく言語化してくれていた感動、興奮、そして新たに明確化された知識から組み立てられた未来予想図に、とてつもない恐怖と閉塞感を覚えたからだ。
ここ最近、知識を貪り食って胸やけ気味なのは、私の内側から見える世界が急激に再構築されてしまって、気持ちがついていけてないからなのかもしれない。
言葉で表現できないものは「存在しないもの」とされてしまうから、誰かに共感してほしくて、動作性IQ141の私が感じている感覚の言語化を試みてみる。
平面でつながっている現在と過去に、仕組みや法則、要素という骨組みが乗っかって、立体を形作る。平面でつながった先にある未来は見えないけれども、立体的に組んだ骨組みは未来の方まで伸びていて、未来の方に伸びた骨組みを見れば、その下の平面がどうなっているかは予想がつく。
そんな感じ。実際に目に見えるわけではないんだけれど、確かに感覚としてはそんな感じ。
骨組みは、知識という素材を頭に入れることによってすごい勢いで形成されていく。世間との共通知識という、産地も強度もしっかりしている素材はとてもいい。今までお粗末な素材しか入れてこなかったから、余計にそう感じるのかもしれない。
しかしそれらの素材を使って再構築した世界と、その延長上に見えた未来予想図は私にとって恐怖と閉塞感に満ちていた。
自分自身で研究したり何らかの活動を起こしたり、更に知識を詰め込んだりすれば、この未来予想図は覆るのかもしれない。だからもし、このエントリーを読んでくださった方で、識者の方がいらっしゃればご意見賜りたいのです。
そんなの予想の一つに過ぎない、未来はどうなるか分からない、という漠然としたものではなくて、きちんと理屈や要素に基づいた、別角度からのご意見を聞いてみたい。コメントを下さった方には後日、必ず返信させていただきます。
人格が薄れゆく世界
現時点で私は、人格とは、「不確定な世界に産み落とされたとある“個”が、不確定な世界を生き抜いていくために内側に築いた指針」であると思っている。
人は、不確定で生きづらい環境を、自分達が生きやすいように、自分達に都合がいいようにと変えていった。『バカの壁』から言葉を借りれば脳化社会、つまり、現在私達が住んでいる都市は脳で創り出した世界を投影したものだと言っている。
その結果、人は昔よりも身体を使わなくてもいいようになった。今後はおそらく、頭も使わなくていいようになる。
人は文字を発明して、意志の伝達を明確にできるようにした。その時にはまだ想像力を働かせる余地、自力で他人をおもんばかる余地が残されていた。
次に、人はテレビなどの映像メディアを発明して、受け手が想像しなくても正確に情報が伝わるようにした。これは逆に言えば、情報を受け取るために、受け手側が色々と考えなくてもよくなった訳だ。しかし映像メディアは遠くで起こった出来事を、情報として形骸化させてしまう。これは人間が普段、情報の大半を取り入れている視覚と聴覚の両方を刺激することで、“全てを知った気にさせてしまう”という事だ。本来ならば、嗅覚や触覚などといった受信機能も使って初めて、実感、体感というものが湧いてくるのではないだろうか。
更に携帯端末、インターネット、SNSなど、世界のメディア(体感なき情報)化は進み、人が“人格(=自身に根拠)を持つ個”である時間も、必要性すらもなくなってきた。望めばあらゆる情報が“答え”という形で手に入り、すぐに応答が得られ、また、応答を求められる。情報として明確化された世界を生きるために、不確定な世界での判断基準として生まれた“人格”は必要とされていないのではないかと思う。
人間は、不確定という、自分達の生を脅かす驚異を情報化することで確定させてきた。確定的なものであれば、自分達でコントロールすることができる。そうして不確定なものをできるだけ排除し、“答え”として出されたもの=情報だけで周りを固めていった結果が、今の世の中である。
この人類・文明の発展傾向自体は、今も昔も変わらない。
現在起こっているニーズの細分化も、情報化の延長線上にある。ニーズの細分化とは例えば、同じ化粧品一つ取っても、乾燥肌用、脂肌用、普通肌用……と、何種類もの、それぞれの“個”に近い“正解=確定情報”を用意するような事だ。不確定なものを、正確に(あるいは正確な答えであると見せかけた)情報に置き換えていく。
これが今後も続いていくと仮定すると、世界はどうなってくのだろう?
自ら“閉じた楽園”の中へ
結論から言うと、人類はディストピア(人工的な楽園)を形成するのではないかと思う。今も、意識されているかいないかは別として、より完全なディストピアを形成するために動いている最中なのだと思う。
もっと言えば、人は神様に相当するものを作るのかもしれない。
AIや、インターネット上の世界に現実に通じる価値を実現させようとしている暗号資産(仮想通貨)の存在がそれを匂わせる。
人は“脳”の情報化を成功させ、コンピュータ、ひいてはAIを発明した。車や電車が徒歩の代替えとなり、農耕機や工場機械が肉体労働の代替えとなって、人間が身体を使わなくてもよくなったように、“脳”の情報化は人間の頭を代替えする。コンピュータは計算を、AIは考える事そのものを担当し、それが広く普及されれば、少なくとも大多数の人間は考える必要がなくなってしまう。
考えなくなった人間が存在し、考えなくても生きていける世界とは、全ての不確定が情報化し、全てが確定した世界だ。
人は自らが築いてきた情報の中に埋没し、自らも情報の一部と化して、自らが作った神(=AIもしくはそれがより発展したもの)の庇護の下で生き続けていく。生きるための労働のほとんどを人工的な神様達が代替えし、人間は結果だけを享受する。
そうなった時、人間はどうなっているのだろう。
自分の頭で考えず、与えられた情報を鵜呑みにし、他人をレッテルで判断する。自分では考えているつもりでも、それは既に確定したものの内側で完結する不確定さでしかない。現在でもそういう傾向はあるが、それを理想と信じ、自ら望んで、自ら閉じた枠の中で“飼われ”ようとしているかと思うと、恐怖と共にうすら寒さを覚えてしまう。
最後に、希望を求めて
……このエントリーを書きだす前は、ここで私の思考は終わっていたのだが、例によって書きまとめているうちに、また別の考えが浮かんできたのでそれも書いておこうと思う。
一縷の望みとしては、生きるために躍起になってお金を稼ぐ必要がなくなるのであれば、人は「自分(お金)のため」ではなく、純粋に「他人のため」に働きたい、と思うようになるのではないか、というものがある。確かにそういう一面はあると思うし、そうなればいいと思う。
ただしそれはその人に、ある程度の教養があって、初めて成立する話だ。
脳も身体も、生きるために頑張らせなくていい。でも人間だから、生物だから、生きているという実感(刺激)が欲しい。手っ取り早くて楽に刺激を得られるものはなんだろう?ギャンブルや奔放な性が横行する可能性は否定できない。
例え未来がどうなろうと、個々人が人間としての教養を身につける。唯一絶対の正解ではないが、ないよりは絶対にあった方がいい、という形で結論を出せばそうなるだろう。
そう考えると、(その方法が適切であるかは別として)人生のどの地点からでも学べる生涯学習を推し進めている現在の国の方針は、あながち間違いではないと思う。
実は『バカの壁』を書店で購入した時、最初は先に目についた『国家と教養』(藤原正彦氏著)を買おうと思っていた。悩んだ末、何故先に『バカの壁』を買おうと思ったのかは分からないが、結果的に良かったと思うし、『国家と教養』の方もまた後日、読んでみたいと思う。なんとなく、そこには私が期待する事が書いてある気がする。