【ギフテッドな日々】障害と天才の挟間より速報

動作性IQ141ギフテッド。そんな人の視点から見た世界をつらつらとつづっていきます。

夫婦版・問題解決の進め方

 今日は2020年からの学習指導要領について書こうと思っていたのだけれど、ブログを開いたら目に留まるものがあったので、予定を変更。

www.696hs.net

 こちら、いつものミナコさんの記事。久し振りに言及させていただきたいなと思います。

 言及といってもうちの場合は夫婦関係を結んでいない上、相手のことを子供っぽいとも思っていないので、状況設定としては全然違うのですが。本質的な部分では少し近いものがあるような気がしたのでそれについて書いていこうと思います。

問題のある相方について

 まず最初に。私と彼氏さん=バツイチ子持ち女と文無し流れ者男である。

 自慢じゃないですが、私と彼氏さんがお付き合いしていることを知っている人は一律、「あいつは大丈夫なの?」「あの人ももっとちゃんとしてくれればいいんだけどねー」「目を覚まして!」←(笑)という反応をします。まぁ当たり前ですね。将来、生計を共にして養ってくれるどころか、場当たり的に生きてきた末に日銭が尽きて、支払いも滞らせ、彼女を残して職探しに流れていってしまうような人ですから。世間一般的な価値観からしたら完全なるダメ人間です。それは認めます。私だって欲を言えば、彼氏さんにはある程度の計画性を持ってほしいし、ちゃんと貯金してほしいし、子供も含めて一緒に暮らしたいと思っている。

 言及させていただいた元記事との類似点は、相方に問題があること。相違点は、相方は子供っぽくはないことだ。

 おそらく私が強く望めば、彼氏さんは多少の我慢をしつつも私の望む通りにしてくれていたと思う。ただ私がそれをしなかったのは、引用記事にあるように、人が本当に変わるのは『自分で変わろうと思う時』だからなんですよね。

良い我慢と悪い我慢

 私は我慢には『行動制限』と『自我の抑圧』の2種類があると思っている。

 『行動制限』による我慢は良い我慢で、工夫次第でいくらでも代替えが利く。例えばお小遣いが3万円から1万円に減らされたとして、好きなことができなくなる! という状況が発生したとする。その時に、いつまでも3万円で遊んでいた生活に固執してしまうと単なる我慢になってしまうが、残された1万円をベースに、楽しみを新たに見つけ出して生活を構築し直せば我慢は必要なくなる。

 一方、『自我の抑圧』は悪い我慢だ。自分が自分であることを認められない、受け入れられない、といったアイデンティティに関わる話だからだ。もちろん仕事など、社会の中ではある程度の『自我の抑圧』は必要だろうけれども、許容範囲を超えてしまったと思ったら個人的には転職でも独立でもしてしまえばいいと思う。

 この『行動制限』と『自我の抑圧』の我慢は一緒くたになって存在していることも多い。言い換えると、自由気ままな行動が自我の解放になっているパターンが多いということだ。そしてそれを咎められると、人は自分自身を否定する『自我の抑圧』に対して反発する。これが、外的な働きかけで人が変わらない要因になっているのだと思う。

受け入れなければ何も始まらない

 言及元の記事には、相方を変えたいのであれば、子供の成長を辿るのが一番なのではないか、と書いてある。

絶対的に愛されている自信という土台があり

→しっかり依存させる

→自立

 この意見には私もまったく同意でして。
 『依存』という言葉を大人向けにもう少ししっかり定義するとすれば、『自分と相手を別個人として線引きをした上で、認める』という感じでしょうか。具体例を挙げるならば、散財するのは自由だけれども私からはお金を出しませんよ、みたいな。まぁうちの例なんですけれども。

 発達の観点から見ると、人間の発達は(老化による機能損失も含め)死ぬまで続く。そして発達の過程は多少の前後こそあれど、ある程度の段階を踏んで進んでいく。この辺りの、成人してからも発達の過程をさかのぼって理想的な成長を取り戻すことはできるのか? というテーマは大いに臨床の価値がありそうですよね。既に先行研究で一定の成果が出ているような気もするんですが、このテーマの可否については勉強不足で、明言できずに申し訳ないです。

 という訳で、成人して(各発達適齢期を過ぎて)からでも適切な発達を促す環境にあれば人は成長する、ということは仮定として置いておきましょう。

 明確なのは、p自分が受け入れられて、初めてq他人も受け入れられるようになる、ということでした。

 少しロジカルに考えると、pはqの必要条件なのだから、どちらにしてもpがなされない限り、相方を変えたいという目的は絶対に達成されないんですよね。

夫婦間で問題がある場合

 受け入れなければ何も始まらない、と銘打ちましたが、私は元旦那をついに受け入れられなくなったが故に離婚しました。
 なので当時の自分の未熟さを差し引いても、夫婦関係が理屈やきれいごとでないことは分かります。運命共同体であるが故に、毎日顔を合わせるが故に、つまり毎日実害を被るが故に、冷静ではいられなくなってしまいます。というか、もはや嫌いでした。嫌いになってしまった時点で、『絶対的に愛されている自信』という土台を提供できないのでダメですね。

 今になって当時を振り返り、夫婦関係を継続させる方法を模索するとしたら、やはり自分が相手よりも大人になるしかなかったなと。相手の方が10も年上でしたけど。きちんと自分と相手を線引きをした上で、相手を受け入れるしかなかったのかなと思います。まぁどのみち、現実には無理でしたでしょうね。

 ただ一つだけ、現在も夫婦関係でお悩みの方におせっかいを言わせていただけるとしたら『相方を受け入れる=あなたが全てを譲らなければならない、ではない!』ということだけは伝えたい。

 受け入れる、と、何でも相手の要求を呑む、は別物です。そして相方という自我を抑圧(攻撃)しなければ、こちらの意見を主張したっていいんです。

 不満に思いながらも相手の要求を呑んでしまうと、自分の自我が抑圧されます。その抑圧された自我が、怒りとなって相手の自我を攻撃します。だから自分が納得いかないことは、きちんと理由をつけて、相手の希望に添えられないことへの謝罪も添えて、お断りする。例え夫婦間であっても生活共同体であっても、個人と個人の線引きはしておいた方がいいと思うのです。


 すいません、言いたいこともう一つあった。
 愛も情もなくなったら、生活を共にする相手を受け入れるのは多分、無理です。先に相方を愛し直すのが先です。それか離婚するか。嫌いな相手を愛する方法はまた長くなってしまうのでここでは書きません。気が向くか、リクエストがあれば書くかもしれません。

特殊カップル(うち)の場合

 最後にうちの場合を事例としてシメさせていただきます。
 彼氏さんは社会的ステータスはダメ人間ですが、他人を受け入れる力は神レベルという珍しい存在です。彼氏さんは強い(無自覚に賢い)ので、自身の状態も客観的評価も理解していて、その上で自他の線引き、自他の受け入れができます。極端な話、社会的活動や自分のことはどうでもいいからやらないのです。私はギフテッド(自閉傾向)なので、内面世界以外にはあまり興味がありません。だから、自分も他人も全て受け入れて正直に生きている彼氏さんに惹かれたのでしょう。

 さて、問題は、彼氏さんは社会的にはダメ人間だということです。彼氏さんと一緒に暮らしたい! 結婚したい! とこだわっていた時は色々と葛藤がありましたが、結局、彼氏さん自身が自発的に自分の現状を変えなければダメなのだなと思い至り、あーだこーだ言うのをやめました。お金の貸し借りもナシにしました。つまり、私自身が彼氏さんに依存させてもらえていたことで自立しました。そして社会的にダメな部分も全部含めて、受け入れることにしたのです。ただ好きでいることにしたのです。


 それが彼氏さんにとって、絶対的に愛されている自信、という土台になったかは分かりませんが。
 食うにも困る状況に陥った彼氏さんが、私に頼るのを思いとどまったことを、私は密かに知っている。なあなあの甘えた関係にせず、自力で責任を取ろうとしたことを知っている。


(注)ただし私が結婚というこだわりを捨てられたのは、①すでに私が子宝にも恵まれていて、②なんなら自分一人でも子供を育てていくだけの手段もある=相手に『行動制限(ひいては自我の抑制)』を強いる必要がない、という条件が整っているからなんですね。子宝の点では、元旦那に感謝しないといけないな。