私達の神様は、今もデータの海に埋没している
人類が向かおうとする方向が気に入らない。
人類の共通の願いとは何か?
寿命を全うできる世界か?文化的な生活水準を維持する事か?
人間には「考える能力」「創作する能力」がある。
「創作する能力」それは自分の内部を投影したり(=芸術、文学)、自分が変わるのではなく、自分に合わせて周りを変える能力(衣食住etc)。それはいわば魔法みたいなもの。
「考える能力」それは神様の能力。自己、自我は世界を捉える指標そのもの。考えの数だけ世界がある。
人間は神様の能力を持っているのに、自信がないから宗教を持つ。失敗のない、完璧な、模倣するべき指針として神様を求める。
神様の能力を持っているはずの人間が、偶像の神様にすがるのは、自身を安定させたいから。世界を与えられた新米の神様は、自由過ぎてどうしていいか分からないから、これが正解だ、っていう見本というか拠り所というか、もっと言えば保証が欲しい。
だから完璧な、偶像の神様を作ってすがった。世界の構築という大変な責任を、自分以外の誰か(偶像の神様)に持ってもらうために。
手本として、その意味を考えるのはいいけれども、コピーはダメだ。近代の物を例に挙げるのは逆説的だけれども、データのコピー&ペーストではなく、AIの手順を踏まなければならない。コピペは単なる情報の羅列。AIの手順はシステムの構築。
世界の構築とは本来、システムを構築する事。コピペで構築された世界は、中身がスカスカな紛い物のがらくたみたいなもの。
世界の構築責任を偶像の神様に丸投げしたとしても、世界の構築に手を下すのは何も考えない自分自身だ。何も考えずにコピペだけを繰り返していると、システムという骨組みに支えられない世界は簡単に壊れてしまう。
人間には「考える能力の基盤」の差、「受ける刺激」の差がある。だから自分と他人の作る世界は、絶対に同じ世界にはならない。
自分が構築する世界には、自分で責任を持つ勇気を持とう。
人類全体の方向性。この地球という、物理的な共通世界。たった一つしかない世界の方向性。
そこに住まう神様達が、天寿を全うできますように。楽に生きられますように。
その楽の中に、「思考の放棄」は含まれているのだろうか。
世界構築という重い責任からの解放。確かに楽にはなるだろう。でも違和感がある。その違和感の正体はなんなのか?
その正体を探るためには、そもそもまず、何故、世界の構築に責任を感じるのか、について考えてみたい。
与えられた世界は1つ。失敗は自身の消滅をも意味する。失敗したら取り返しがつかない。
でも考えてみてほしい。「死」ってそんなに悪いことか?誰しも必ず死ぬのに、誰しもが死を遠ざける。先延ばしにすることに躍起になっている。
この「死」を恐れるあまりに、失敗を恐れ、偶像の神様に頼って責任を軽くしてもらおうとする。
ではどうして人は、ここまで「死」を嫌悪するようになってしまったのだろうか。
死を遠ざけることだけを目指す未来。日本は特にそうかもしれない。
今、この瞬間、生きていることが嬉しい。たまらなく幸せであると感じる。
もしかしたら……人類は進化していて、私が正しいと感じている、この「生きたい」という思いの方こそが時代錯誤なのではないか?
そんな疑問も浮かんできた。
それは単なる、対処療法ではないのか?