貯金は減っていくけれど、今日も私は幸せです。
某プライベート・ブランドのまずいハイボールで酔いながらスマートフォンをいじっていて、50日以上もブログを書いていないことに気付いた深夜0時。何年も聴いていないのに、なぜか突然、Mr.Childrenの「光の射す方へ」が頭の中によみがえった。そうだ、酔った勢いで自分の近況を書いてみようか。唐突に思いつき、今、私は久し振りにパソコンのキーボードを叩いている。
完全に安定していた職場を突如飛び出し、雀荘で働き出して早2ヶ月になる。
雀荘の給与システムについては敢えて深く語らないが、給料なんてほとんど残らなくて、毎月口座から引き落とされる金額にすら達しない。でも危機感はなくて、変なストレスを感じることもなく、毎日それなりに楽しく過ごしている。それはどういうことなのか。まずは前職で稼いでいた分の貯金があるという部分が大きいだろう。それに加えて、いざとなればいかようにでも働ける、と思っているのも、強みになっているのかもしれない。更に言えば、職場自体が、給料が残るよう体制を整える方向に動いている、という点もある。これについては過度の期待をしてはいけないが、昨年、社員メンバーに対しての待遇改善の実績があるので、私もしっかりと店側と話し合っていきたいと思う。
さて、ここまでが一般的な、理屈に寄った、実につまらない「貯金が減っていくのにストレスを感じていない」理由だ。
本当の、私自身の心理に寄り添った理由はなんだろうか。
それは多分、「生きている実感」「枠にはまらない部分で生きる幸せ」「人間の生身の部分に触れて生きられる幸せ」というところだろう。
麻雀は……正確には、雀荘での麻雀はゼロサム・ゲームではない。ゲーム開始時に、ゲーム代を取られる時点でマイナスからのスタートなのだ。
……え? 雀荘って、働いている人も人数合わせのために卓に入る時はゲーム代払う(給料から天引き)んだよ? ホントだよ?
だから理屈で言えば、よほど強い人でない限り、打てば打つほど給料(期待値)が減っていくのだ。なんてったってうちはレートは低いけれども、場代は安くはないですからね!
……ちょっと話題がそれかけましたが、つまり、「勝たなきゃお給料が出ない」という状況が、「生きている実感」につながっているんだろうと思う。
生の実感って、アレですよ。死、という対比があるから成り立つわけですよ。まぁ私の場合、貯金という後ろ盾があるから、所詮はごっこ遊びみたいなものですけれどね。多分、この記事を読みながら、ドン引きしていらっしゃる方もいると思います。完全にダメ人間みたいな発想ですよね。
でも。でも、ですね。
私にはずっと、くだらない、人為的に作られた枠の中で生きてきた実感があるんです。
今は教育指導要領の改正によって、私の小中高時代とは多少違っていると思いますけれども、例えば夏休みの自由研究。辞書や文献を調べればとっくに解明されているであろうはずの事を、なんでわざわざ「研究」なんて銘打って、分かり切った結果を出す作業をしなければならないのか。テストで100点取っていようがやらなければならない、算数の宿題もそう。小学生の頃から、そんなことばかり考えていました。
でも今は違う。泣くか笑うかが、自分の選択一つに掛かっている。どんなに麻雀が強い人だって、運がなければ負けてしまうような理不尽さもある。
安定のために保護された枠の中で生きるよりも、よほど生きている実感があるのです。
あっ、自己保身のために書かせていただくと、子どもにはちゃんと栄養のあるもの食べさせていますよ! でも自分のお昼ご飯が毎日納豆ご飯だとか、お金ないから禁煙しなきゃだとか、そういうのは全然ストレスじゃないです。今ある収入に見合った生活をする、というのは簡単な理屈だけで納得がいく問題ですから。
……なんだか破滅願望がある、ヤバイ人みたいだなぁ。言葉が足りてるか、ちゃんと伝わるか、心配になってきた。
後はもう一つ、「人間の生身の部分に触れて生きられる幸せ」について書かせてください。
雀荘って、いい年をした大人が遊びに来るところなんですよ。普段、会社員だったり、お父さん、旦那さんだったりする人達が、素の自分に戻って楽しめる場所なんですよ。
そしてうちの店は、何でもありではないけれども、ある程度はお客さんのワガママを容認するスタイルのお店です。だからでしょうか、うちのお店に来てくれるお客さんはみんな、すごく生き生きとしていらっしゃる。もちろん中には、上から目線でモノを言ったり、子どもみたいな文句を言うお客さんもいらっしゃいますが、それって「外の世界」では本来、隠していなければいけない感情ですよね。あるいは、表に出してしまったら人が離れていってしまう類の感情。
そういう汚い本音というか、本性というか、お客さんが生身の人間としての部分を感じさせてくれるという点も、私にとってはポイントが高いですね。
……ドMみたいな事言いましたが、当然、純粋に楽しそうに遊んでいってくれるお客さんも大好きです。ようは、完全にではないにしろ、社会的な束縛から幾分かでも解放された姿を、うちのお店で晒してくれるのが嬉しいのです。生きてる、って感じがする。
ここまで書いて気付きましたけれども、私はきっと、自分を含めた全ての人に「生きて」欲しいんですね。
その人の人格や立ち居振る舞いは、その人に与えられてきた環境の中で生き延びるために身につけた処世術であり、その人の「生」そのものなのです。持論ですが。
だから本来は、誰にもその人を否定する権利はないのです。その人の生きてきた道筋を、その人にとっての正しい選択を、人生を否定することになってしまうから。
でも一人の人間の人格を形成するのは多くの他人との関わりあってこそだし、例えば問題のある某人自身が、今度は逆に他者にとっての要因となって悪影響を与えることは避けたい。難しいですね。社会と個人は表裏一体で、切って切り離せるもんじゃないんです。
それでも私は社会的な枠組みなんぞ取っ払って、まずは無条件に、生物としての人間を受け入れたいと思う。個人として、受け取る、かどうかは別にして、ね。
あぁ、氷をかじったり、アプリゲームに脱線したりしていたら、すっかり酔いがさめてしまった。
最初と最後で主旨がずれているような気がしなくもないけれど、収拾がつかなくなってきたのでこの辺にしておきます。