自閉症スペクトラムの子どもと親
こんにちは。最近ついつい怒ってしまって、息子に対してどう接すればいいのか分からなくなっている私です。
あれ?そういうの克服したんじゃないの?……って感じですが、人間の発達って一筋縄ではいかないのねんー。
最近はたまにしかブログ更新しないので、まずは状況を説明しておきます↓
息子→自閉症スペクトラム診断アリ(知的障害ナシなので経過観察中)
私 →ギフテッド(高IQのため、発達障害判定下りず)
で、今回は何に困っているかって、
息子の特性のままに育てる
→友達ができない
→息子自身がそれを悲しんでいる
というところですよねー。
宿題なんかについても、本人はやりたいと思っているし、決められたことが出来ないと困る、というのは理解している。でもいざ、机に向かうと途端にストレスにやられてしまう。という状態が続いている。
これになんで困っているかって、私が生来の性質的に、“自閉症スペクトラムの気持ちや感覚が分かり”、かつ、“多数派が支配する世間の感覚も経験的に理解している”という点に原因がありますよね。
自閉症スペクトラムの特徴の一例として、それこそ好きな事・興味のある事はいくらでもできるけど、嫌な事・意味を感じられない事なんかについては本当に身体が重くなって息苦しくなって、頭が回らなくなる、というものがあるんです。
健常者からしたら、「ハァ?なに甘えてんの?うちらだって嫌なの我慢して生きてるんだけど」って感じなんでしょうね。
私だってそう思いますよ。自分が「みんなそうなんだ」「辛くてもやるもんだ」って事を刷り込まれて、『自分がワガママで、周りの正しい世界に合わせるべきだ』を強要されて生きてきた人間だから、なおさら。私は自分が周りに合わせなきゃ生きてこられなかったのに、息子は多少なりとも融通をきかせてもらっている。しかもその上で、「こうしたいけど、ぼくにはできない」って言っている。
できない、じゃねえよ。やんなきゃ余計にガンガン怒られるんだよ。こっちがストレスためすぎてキレたってまた怒られるし、何言ったって「言い訳するな」って言われるんだよ。
……ってな感じで、黒い感情がふつふつと湧き起こってしまう。
自分が許されなかった事を許してもらって、「できない」って口に出して言える息子に、嫉妬しているんでしょうね。多分。
そして、そんな「できない」が許されてしまったら、私が知っている世間で息子が生きていけるのか分からないから、心配でしょうがないんだ。
分かってます。
心理学的でいう、いわゆる『課題の分離』ができていない、という事は。
でもさ、じゃあさ、どうすればいいんだい。
「親や周囲のサポートが必要です」「その子に合った教育や環境を」って言われているし、そうしたいけど、出来ないんだよ。
放課後療育クラブなんてどこもかしこもいっぱいだよ。
事情を知っている大人は気を遣ってくれるけれど、子どもは正直だよ。小学三年生にもなって指を口の中に突っ込んでたり、サッカー中に、自分の話を聞いてくれる優しい大人に話しかけに行ってる子となんか、友達になってくれないんだよ。
ほっとけばいいの?
「どうにかしたいけど、できないんだ」って、ちゃんと助けを求めている子を?
なんとか手助けしてあげたくて色々な方法を考えるけど、そばで一緒にやってたって「できない」っていう子に、これ以上どうすればいいんだい。
結局、少数派が無理矢理にでも自分を捻じ曲げて、世間のルールに合わせるしかないじゃないか。
綺麗事なんて大っ嫌いだ。
あれから何十何年経ったからって、世間はそんなに優しくならない。
一部の関係者達が優しいだけで、世間は結局、使い勝手のいい、数が多い者たちのために働くんだ。知ってる。
だから、だからさ。
たまーに、本当にたまーにだけど、本当に心から、無条件に受け入れてもらった時、涙が出そうになるんだ。
本当は、助けてほしい、と思っているんだ。
だから私に助けを求められる息子に対して、この子はどうにかしてあげたい、っていう気持ちと、私は誰にも助けてもらえないのに、っていう嫉妬が入り混じる。
人間の心理は複雑ですね。自分自身の心でさえ、こうして書き出して整理整頓しないと上手く表現できない。
私は三十云年生きてきて、大分、処世術を身につけてしまったけれども、息子はまだまだとっても心が柔らかい。
ただでさえ純粋な心が傷だらけになっていくのを見るのは本当に辛い。でも生き延びるためには、何故友達ができないのか分からない彼に、現実を伝えなければならない。
私達がこの世を生きていくためにはさらに傷つかなきゃいけないらしい。
ただでさえ厳しい事を言わなければならないのだから、せめて自分の内面の問題を持ち出して、怒ってしまう事は避けたい。そのためにこのエントリーを書いたまである。
心理と教育コースに在学中とはいえ、発達障害や臨床心理についてはまだまだ無知なので、今月中旬に子ども病院の予約が入っているので、いろいろ相談してきたいと思います。
「命を大切に」って言うな
なんかさ。
レイプ被害とか就職失敗とか、それが転じて鬱になってしまった人とかが自殺してしまった時に、その人や似た境遇に置かれている人に対して言われますやん。
あるいは歌や詩や啓発とかでも。「あなたの大切な命を無駄にしないで」みたいな意見。
これ、いい事言ってるようで、どっから目線だよと思うのは私だけなんですかね。
そこまで追い詰められてしまった人たちが、命を大切にしなかったとでも思っているんですかね。
辛い目に遭ったその人達が、その後、必死に生きようとしなかった、とでも思っているんですかね。
自ら死を選ぼうと思った人は、間違って植えつけられた認識を変える事ができなかったり、心に深く負った傷が癒せなかったりしたのでしょう。
前者は、認識を変えるきっかけさえうまくつかめていれば……とは思いますが、それでもその人にかける言葉は「命を大切に」じゃない。
命を大切にしているからこそ、死ぬまで悩んだんでしょうに。
なんとか生きようとして、必死にもがいて、それでも打ちのめされた絶望から「死ぬしかない」ってなったんでしょうに。
そんな人たちに対して、「命を大切にして」「無駄にしないで」って、ホント、どんだけ他人事で上からだよ。これ、裏を返せば、「あなたは命の重みを分かっていない」って責めてるのと同じですからね? 言っている人たちに悪意なんてないだろうし、むしろ善意からなんだろうけれど、これ以上その人たちを追い詰めてどうするんだよ。無知の善意と無意識の正当性主張が一番たちが悪いんだよ。
軽々しくそんな言葉を口にするんならさ。
今にも死にそうになっている人の心に堆積しまくったどぶを掻き出してさ、その「死にたい」の裏に「生きたい」が本当に一つもないのか、確認してからにしようよ。
心の底から、「生きてていいんだ」って言ってやんなよ。
そんで、慰めとか哀れみとかじゃなくってさ。そのまままるごと、「それでいいんだ」って、生きさせてくれる寛容な社会にしようよ。
もしかしたらね、不治の病で必死に生きようとしている人がいて、その人から見たらやっぱり、自殺者や自殺しようとしている人たちは命を粗末にしているようにみえるのかもしれない。
そういう、生きたくても生きられない人たちはきっと、『死』が隣に来たことで、本当に『生』の大切さが実感できた、すごい人たちなんだと思う。
だからね、『死』って本当は、遠ざけちゃいけないものだと思うんだ。もちろん、軽々しく死んでいい、って言っているのではなく。
『生』と『死』って二つでワンセットなのに、「死んじゃダメ!とにかく生きるのが大事!」みたいに『死』だけにフタをしちゃってるから、本質を見失うんだと思う。
そんな現代の問題に加えて、もう一つの問題は、『死』にすがるほどひどい『生』の現実がある、って事だよ。
本来は『死』があるから『生』が活きるのに、最初っから『死』が覆い隠されているから、かえって『生』の可能性が狭まってしまう。「生きているうちにやろう!」という瞬発力が封印されてしまう。それに加えて、レッテル通りの行動やステータスから外れた者を殺しに来るこの現代社会よ。それを、レッテル通りに生きられる人間が、効率化社会のために殺されようとしている人に対して「命を大切にしてね!」って、ちゃんちゃらおかしいわ。
ごめんなさい。思いつくまま掻き出して行ったら、つい、終始攻撃的になった。
私こそ、どこから目線なんだろうな。決して死にたいわけではないんだけれども。
私達の神様は、今もデータの海に埋没している
人類が向かおうとする方向が気に入らない。
人類の共通の願いとは何か?
寿命を全うできる世界か?文化的な生活水準を維持する事か?
人間には「考える能力」「創作する能力」がある。
「創作する能力」それは自分の内部を投影したり(=芸術、文学)、自分が変わるのではなく、自分に合わせて周りを変える能力(衣食住etc)。それはいわば魔法みたいなもの。
「考える能力」それは神様の能力。自己、自我は世界を捉える指標そのもの。考えの数だけ世界がある。
人間は神様の能力を持っているのに、自信がないから宗教を持つ。失敗のない、完璧な、模倣するべき指針として神様を求める。
神様の能力を持っているはずの人間が、偶像の神様にすがるのは、自身を安定させたいから。世界を与えられた新米の神様は、自由過ぎてどうしていいか分からないから、これが正解だ、っていう見本というか拠り所というか、もっと言えば保証が欲しい。
だから完璧な、偶像の神様を作ってすがった。世界の構築という大変な責任を、自分以外の誰か(偶像の神様)に持ってもらうために。
手本として、その意味を考えるのはいいけれども、コピーはダメだ。近代の物を例に挙げるのは逆説的だけれども、データのコピー&ペーストではなく、AIの手順を踏まなければならない。コピペは単なる情報の羅列。AIの手順はシステムの構築。
世界の構築とは本来、システムを構築する事。コピペで構築された世界は、中身がスカスカな紛い物のがらくたみたいなもの。
世界の構築責任を偶像の神様に丸投げしたとしても、世界の構築に手を下すのは何も考えない自分自身だ。何も考えずにコピペだけを繰り返していると、システムという骨組みに支えられない世界は簡単に壊れてしまう。
人間には「考える能力の基盤」の差、「受ける刺激」の差がある。だから自分と他人の作る世界は、絶対に同じ世界にはならない。
自分が構築する世界には、自分で責任を持つ勇気を持とう。
人類全体の方向性。この地球という、物理的な共通世界。たった一つしかない世界の方向性。
そこに住まう神様達が、天寿を全うできますように。楽に生きられますように。
その楽の中に、「思考の放棄」は含まれているのだろうか。
世界構築という重い責任からの解放。確かに楽にはなるだろう。でも違和感がある。その違和感の正体はなんなのか?
その正体を探るためには、そもそもまず、何故、世界の構築に責任を感じるのか、について考えてみたい。
与えられた世界は1つ。失敗は自身の消滅をも意味する。失敗したら取り返しがつかない。
でも考えてみてほしい。「死」ってそんなに悪いことか?誰しも必ず死ぬのに、誰しもが死を遠ざける。先延ばしにすることに躍起になっている。
この「死」を恐れるあまりに、失敗を恐れ、偶像の神様に頼って責任を軽くしてもらおうとする。
ではどうして人は、ここまで「死」を嫌悪するようになってしまったのだろうか。
死を遠ざけることだけを目指す未来。日本は特にそうかもしれない。
今、この瞬間、生きていることが嬉しい。たまらなく幸せであると感じる。
もしかしたら……人類は進化していて、私が正しいと感じている、この「生きたい」という思いの方こそが時代錯誤なのではないか?
そんな疑問も浮かんできた。
それは単なる、対処療法ではないのか?
ナイショの未来予想図
※前置き
世間に大分遅ればせながら、養老孟司氏の『バカの壁』を読んで、読み終わるまで毎晩、一人でこっそり泣いていた。
多分、普通に考えて、『バカの壁』は読んで涙するような内容ではないと思う。でも私の頭の中にあって、上手な言語化もその機会もなかった二元論の有用性だとかを、大学の教授が分かりやすく言語化してくれていた感動、興奮、そして新たに明確化された知識から組み立てられた未来予想図に、とてつもない恐怖と閉塞感を覚えたからだ。
ここ最近、知識を貪り食って胸やけ気味なのは、私の内側から見える世界が急激に再構築されてしまって、気持ちがついていけてないからなのかもしれない。
言葉で表現できないものは「存在しないもの」とされてしまうから、誰かに共感してほしくて、動作性IQ141の私が感じている感覚の言語化を試みてみる。
平面でつながっている現在と過去に、仕組みや法則、要素という骨組みが乗っかって、立体を形作る。平面でつながった先にある未来は見えないけれども、立体的に組んだ骨組みは未来の方まで伸びていて、未来の方に伸びた骨組みを見れば、その下の平面がどうなっているかは予想がつく。
そんな感じ。実際に目に見えるわけではないんだけれど、確かに感覚としてはそんな感じ。
骨組みは、知識という素材を頭に入れることによってすごい勢いで形成されていく。世間との共通知識という、産地も強度もしっかりしている素材はとてもいい。今までお粗末な素材しか入れてこなかったから、余計にそう感じるのかもしれない。
しかしそれらの素材を使って再構築した世界と、その延長上に見えた未来予想図は私にとって恐怖と閉塞感に満ちていた。
自分自身で研究したり何らかの活動を起こしたり、更に知識を詰め込んだりすれば、この未来予想図は覆るのかもしれない。だからもし、このエントリーを読んでくださった方で、識者の方がいらっしゃればご意見賜りたいのです。
そんなの予想の一つに過ぎない、未来はどうなるか分からない、という漠然としたものではなくて、きちんと理屈や要素に基づいた、別角度からのご意見を聞いてみたい。コメントを下さった方には後日、必ず返信させていただきます。
人格が薄れゆく世界
現時点で私は、人格とは、「不確定な世界に産み落とされたとある“個”が、不確定な世界を生き抜いていくために内側に築いた指針」であると思っている。
人は、不確定で生きづらい環境を、自分達が生きやすいように、自分達に都合がいいようにと変えていった。『バカの壁』から言葉を借りれば脳化社会、つまり、現在私達が住んでいる都市は脳で創り出した世界を投影したものだと言っている。
その結果、人は昔よりも身体を使わなくてもいいようになった。今後はおそらく、頭も使わなくていいようになる。
人は文字を発明して、意志の伝達を明確にできるようにした。その時にはまだ想像力を働かせる余地、自力で他人をおもんばかる余地が残されていた。
次に、人はテレビなどの映像メディアを発明して、受け手が想像しなくても正確に情報が伝わるようにした。これは逆に言えば、情報を受け取るために、受け手側が色々と考えなくてもよくなった訳だ。しかし映像メディアは遠くで起こった出来事を、情報として形骸化させてしまう。これは人間が普段、情報の大半を取り入れている視覚と聴覚の両方を刺激することで、“全てを知った気にさせてしまう”という事だ。本来ならば、嗅覚や触覚などといった受信機能も使って初めて、実感、体感というものが湧いてくるのではないだろうか。
更に携帯端末、インターネット、SNSなど、世界のメディア(体感なき情報)化は進み、人が“人格(=自身に根拠)を持つ個”である時間も、必要性すらもなくなってきた。望めばあらゆる情報が“答え”という形で手に入り、すぐに応答が得られ、また、応答を求められる。情報として明確化された世界を生きるために、不確定な世界での判断基準として生まれた“人格”は必要とされていないのではないかと思う。
人間は、不確定という、自分達の生を脅かす驚異を情報化することで確定させてきた。確定的なものであれば、自分達でコントロールすることができる。そうして不確定なものをできるだけ排除し、“答え”として出されたもの=情報だけで周りを固めていった結果が、今の世の中である。
この人類・文明の発展傾向自体は、今も昔も変わらない。
現在起こっているニーズの細分化も、情報化の延長線上にある。ニーズの細分化とは例えば、同じ化粧品一つ取っても、乾燥肌用、脂肌用、普通肌用……と、何種類もの、それぞれの“個”に近い“正解=確定情報”を用意するような事だ。不確定なものを、正確に(あるいは正確な答えであると見せかけた)情報に置き換えていく。
これが今後も続いていくと仮定すると、世界はどうなってくのだろう?
自ら“閉じた楽園”の中へ
結論から言うと、人類はディストピア(人工的な楽園)を形成するのではないかと思う。今も、意識されているかいないかは別として、より完全なディストピアを形成するために動いている最中なのだと思う。
もっと言えば、人は神様に相当するものを作るのかもしれない。
AIや、インターネット上の世界に現実に通じる価値を実現させようとしている暗号資産(仮想通貨)の存在がそれを匂わせる。
人は“脳”の情報化を成功させ、コンピュータ、ひいてはAIを発明した。車や電車が徒歩の代替えとなり、農耕機や工場機械が肉体労働の代替えとなって、人間が身体を使わなくてもよくなったように、“脳”の情報化は人間の頭を代替えする。コンピュータは計算を、AIは考える事そのものを担当し、それが広く普及されれば、少なくとも大多数の人間は考える必要がなくなってしまう。
考えなくなった人間が存在し、考えなくても生きていける世界とは、全ての不確定が情報化し、全てが確定した世界だ。
人は自らが築いてきた情報の中に埋没し、自らも情報の一部と化して、自らが作った神(=AIもしくはそれがより発展したもの)の庇護の下で生き続けていく。生きるための労働のほとんどを人工的な神様達が代替えし、人間は結果だけを享受する。
そうなった時、人間はどうなっているのだろう。
自分の頭で考えず、与えられた情報を鵜呑みにし、他人をレッテルで判断する。自分では考えているつもりでも、それは既に確定したものの内側で完結する不確定さでしかない。現在でもそういう傾向はあるが、それを理想と信じ、自ら望んで、自ら閉じた枠の中で“飼われ”ようとしているかと思うと、恐怖と共にうすら寒さを覚えてしまう。
最後に、希望を求めて
……このエントリーを書きだす前は、ここで私の思考は終わっていたのだが、例によって書きまとめているうちに、また別の考えが浮かんできたのでそれも書いておこうと思う。
一縷の望みとしては、生きるために躍起になってお金を稼ぐ必要がなくなるのであれば、人は「自分(お金)のため」ではなく、純粋に「他人のため」に働きたい、と思うようになるのではないか、というものがある。確かにそういう一面はあると思うし、そうなればいいと思う。
ただしそれはその人に、ある程度の教養があって、初めて成立する話だ。
脳も身体も、生きるために頑張らせなくていい。でも人間だから、生物だから、生きているという実感(刺激)が欲しい。手っ取り早くて楽に刺激を得られるものはなんだろう?ギャンブルや奔放な性が横行する可能性は否定できない。
例え未来がどうなろうと、個々人が人間としての教養を身につける。唯一絶対の正解ではないが、ないよりは絶対にあった方がいい、という形で結論を出せばそうなるだろう。
そう考えると、(その方法が適切であるかは別として)人生のどの地点からでも学べる生涯学習を推し進めている現在の国の方針は、あながち間違いではないと思う。
実は『バカの壁』を書店で購入した時、最初は先に目についた『国家と教養』(藤原正彦氏著)を買おうと思っていた。悩んだ末、何故先に『バカの壁』を買おうと思ったのかは分からないが、結果的に良かったと思うし、『国家と教養』の方もまた後日、読んでみたいと思う。なんとなく、そこには私が期待する事が書いてある気がする。
貯金は減っていくけれど、今日も私は幸せです。
某プライベート・ブランドのまずいハイボールで酔いながらスマートフォンをいじっていて、50日以上もブログを書いていないことに気付いた深夜0時。何年も聴いていないのに、なぜか突然、Mr.Childrenの「光の射す方へ」が頭の中によみがえった。そうだ、酔った勢いで自分の近況を書いてみようか。唐突に思いつき、今、私は久し振りにパソコンのキーボードを叩いている。
完全に安定していた職場を突如飛び出し、雀荘で働き出して早2ヶ月になる。
雀荘の給与システムについては敢えて深く語らないが、給料なんてほとんど残らなくて、毎月口座から引き落とされる金額にすら達しない。でも危機感はなくて、変なストレスを感じることもなく、毎日それなりに楽しく過ごしている。それはどういうことなのか。まずは前職で稼いでいた分の貯金があるという部分が大きいだろう。それに加えて、いざとなればいかようにでも働ける、と思っているのも、強みになっているのかもしれない。更に言えば、職場自体が、給料が残るよう体制を整える方向に動いている、という点もある。これについては過度の期待をしてはいけないが、昨年、社員メンバーに対しての待遇改善の実績があるので、私もしっかりと店側と話し合っていきたいと思う。
さて、ここまでが一般的な、理屈に寄った、実につまらない「貯金が減っていくのにストレスを感じていない」理由だ。
本当の、私自身の心理に寄り添った理由はなんだろうか。
それは多分、「生きている実感」「枠にはまらない部分で生きる幸せ」「人間の生身の部分に触れて生きられる幸せ」というところだろう。
麻雀は……正確には、雀荘での麻雀はゼロサム・ゲームではない。ゲーム開始時に、ゲーム代を取られる時点でマイナスからのスタートなのだ。
……え? 雀荘って、働いている人も人数合わせのために卓に入る時はゲーム代払う(給料から天引き)んだよ? ホントだよ?
だから理屈で言えば、よほど強い人でない限り、打てば打つほど給料(期待値)が減っていくのだ。なんてったってうちはレートは低いけれども、場代は安くはないですからね!
……ちょっと話題がそれかけましたが、つまり、「勝たなきゃお給料が出ない」という状況が、「生きている実感」につながっているんだろうと思う。
生の実感って、アレですよ。死、という対比があるから成り立つわけですよ。まぁ私の場合、貯金という後ろ盾があるから、所詮はごっこ遊びみたいなものですけれどね。多分、この記事を読みながら、ドン引きしていらっしゃる方もいると思います。完全にダメ人間みたいな発想ですよね。
でも。でも、ですね。
私にはずっと、くだらない、人為的に作られた枠の中で生きてきた実感があるんです。
今は教育指導要領の改正によって、私の小中高時代とは多少違っていると思いますけれども、例えば夏休みの自由研究。辞書や文献を調べればとっくに解明されているであろうはずの事を、なんでわざわざ「研究」なんて銘打って、分かり切った結果を出す作業をしなければならないのか。テストで100点取っていようがやらなければならない、算数の宿題もそう。小学生の頃から、そんなことばかり考えていました。
でも今は違う。泣くか笑うかが、自分の選択一つに掛かっている。どんなに麻雀が強い人だって、運がなければ負けてしまうような理不尽さもある。
安定のために保護された枠の中で生きるよりも、よほど生きている実感があるのです。
あっ、自己保身のために書かせていただくと、子どもにはちゃんと栄養のあるもの食べさせていますよ! でも自分のお昼ご飯が毎日納豆ご飯だとか、お金ないから禁煙しなきゃだとか、そういうのは全然ストレスじゃないです。今ある収入に見合った生活をする、というのは簡単な理屈だけで納得がいく問題ですから。
……なんだか破滅願望がある、ヤバイ人みたいだなぁ。言葉が足りてるか、ちゃんと伝わるか、心配になってきた。
後はもう一つ、「人間の生身の部分に触れて生きられる幸せ」について書かせてください。
雀荘って、いい年をした大人が遊びに来るところなんですよ。普段、会社員だったり、お父さん、旦那さんだったりする人達が、素の自分に戻って楽しめる場所なんですよ。
そしてうちの店は、何でもありではないけれども、ある程度はお客さんのワガママを容認するスタイルのお店です。だからでしょうか、うちのお店に来てくれるお客さんはみんな、すごく生き生きとしていらっしゃる。もちろん中には、上から目線でモノを言ったり、子どもみたいな文句を言うお客さんもいらっしゃいますが、それって「外の世界」では本来、隠していなければいけない感情ですよね。あるいは、表に出してしまったら人が離れていってしまう類の感情。
そういう汚い本音というか、本性というか、お客さんが生身の人間としての部分を感じさせてくれるという点も、私にとってはポイントが高いですね。
……ドMみたいな事言いましたが、当然、純粋に楽しそうに遊んでいってくれるお客さんも大好きです。ようは、完全にではないにしろ、社会的な束縛から幾分かでも解放された姿を、うちのお店で晒してくれるのが嬉しいのです。生きてる、って感じがする。
ここまで書いて気付きましたけれども、私はきっと、自分を含めた全ての人に「生きて」欲しいんですね。
その人の人格や立ち居振る舞いは、その人に与えられてきた環境の中で生き延びるために身につけた処世術であり、その人の「生」そのものなのです。持論ですが。
だから本来は、誰にもその人を否定する権利はないのです。その人の生きてきた道筋を、その人にとっての正しい選択を、人生を否定することになってしまうから。
でも一人の人間の人格を形成するのは多くの他人との関わりあってこそだし、例えば問題のある某人自身が、今度は逆に他者にとっての要因となって悪影響を与えることは避けたい。難しいですね。社会と個人は表裏一体で、切って切り離せるもんじゃないんです。
それでも私は社会的な枠組みなんぞ取っ払って、まずは無条件に、生物としての人間を受け入れたいと思う。個人として、受け取る、かどうかは別にして、ね。
あぁ、氷をかじったり、アプリゲームに脱線したりしていたら、すっかり酔いがさめてしまった。
最初と最後で主旨がずれているような気がしなくもないけれど、収拾がつかなくなってきたのでこの辺にしておきます。
夫婦版・問題解決の進め方
今日は2020年からの学習指導要領について書こうと思っていたのだけれど、ブログを開いたら目に留まるものがあったので、予定を変更。
こちら、いつものミナコさんの記事。久し振りに言及させていただきたいなと思います。
言及といってもうちの場合は夫婦関係を結んでいない上、相手のことを子供っぽいとも思っていないので、状況設定としては全然違うのですが。本質的な部分では少し近いものがあるような気がしたのでそれについて書いていこうと思います。
問題のある相方について
まず最初に。私と彼氏さん=バツイチ子持ち女と文無し流れ者男である。
自慢じゃないですが、私と彼氏さんがお付き合いしていることを知っている人は一律、「あいつは大丈夫なの?」「あの人ももっとちゃんとしてくれればいいんだけどねー」「目を覚まして!」←(笑)という反応をします。まぁ当たり前ですね。将来、生計を共にして養ってくれるどころか、場当たり的に生きてきた末に日銭が尽きて、支払いも滞らせ、彼女を残して職探しに流れていってしまうような人ですから。世間一般的な価値観からしたら完全なるダメ人間です。それは認めます。私だって欲を言えば、彼氏さんにはある程度の計画性を持ってほしいし、ちゃんと貯金してほしいし、子供も含めて一緒に暮らしたいと思っている。
言及させていただいた元記事との類似点は、相方に問題があること。相違点は、相方は子供っぽくはないことだ。
おそらく私が強く望めば、彼氏さんは多少の我慢をしつつも私の望む通りにしてくれていたと思う。ただ私がそれをしなかったのは、引用記事にあるように、人が本当に変わるのは『自分で変わろうと思う時』だからなんですよね。
良い我慢と悪い我慢
私は我慢には『行動制限』と『自我の抑圧』の2種類があると思っている。
『行動制限』による我慢は良い我慢で、工夫次第でいくらでも代替えが利く。例えばお小遣いが3万円から1万円に減らされたとして、好きなことができなくなる! という状況が発生したとする。その時に、いつまでも3万円で遊んでいた生活に固執してしまうと単なる我慢になってしまうが、残された1万円をベースに、楽しみを新たに見つけ出して生活を構築し直せば我慢は必要なくなる。
一方、『自我の抑圧』は悪い我慢だ。自分が自分であることを認められない、受け入れられない、といったアイデンティティに関わる話だからだ。もちろん仕事など、社会の中ではある程度の『自我の抑圧』は必要だろうけれども、許容範囲を超えてしまったと思ったら個人的には転職でも独立でもしてしまえばいいと思う。
この『行動制限』と『自我の抑圧』の我慢は一緒くたになって存在していることも多い。言い換えると、自由気ままな行動が自我の解放になっているパターンが多いということだ。そしてそれを咎められると、人は自分自身を否定する『自我の抑圧』に対して反発する。これが、外的な働きかけで人が変わらない要因になっているのだと思う。
受け入れなければ何も始まらない
言及元の記事には、相方を変えたいのであれば、子供の成長を辿るのが一番なのではないか、と書いてある。
絶対的に愛されている自信という土台があり
→しっかり依存させる
→自立
この意見には私もまったく同意でして。
『依存』という言葉を大人向けにもう少ししっかり定義するとすれば、『自分と相手を別個人として線引きをした上で、認める』という感じでしょうか。具体例を挙げるならば、散財するのは自由だけれども私からはお金を出しませんよ、みたいな。まぁうちの例なんですけれども。
発達の観点から見ると、人間の発達は(老化による機能損失も含め)死ぬまで続く。そして発達の過程は多少の前後こそあれど、ある程度の段階を踏んで進んでいく。この辺りの、成人してからも発達の過程をさかのぼって理想的な成長を取り戻すことはできるのか? というテーマは大いに臨床の価値がありそうですよね。既に先行研究で一定の成果が出ているような気もするんですが、このテーマの可否については勉強不足で、明言できずに申し訳ないです。
という訳で、成人して(各発達適齢期を過ぎて)からでも適切な発達を促す環境にあれば人は成長する、ということは仮定として置いておきましょう。
明確なのは、p自分が受け入れられて、初めてq他人も受け入れられるようになる、ということでした。
少しロジカルに考えると、pはqの必要条件なのだから、どちらにしてもpがなされない限り、相方を変えたいという目的は絶対に達成されないんですよね。
夫婦間で問題がある場合
受け入れなければ何も始まらない、と銘打ちましたが、私は元旦那をついに受け入れられなくなったが故に離婚しました。
なので当時の自分の未熟さを差し引いても、夫婦関係が理屈やきれいごとでないことは分かります。運命共同体であるが故に、毎日顔を合わせるが故に、つまり毎日実害を被るが故に、冷静ではいられなくなってしまいます。というか、もはや嫌いでした。嫌いになってしまった時点で、『絶対的に愛されている自信』という土台を提供できないのでダメですね。
今になって当時を振り返り、夫婦関係を継続させる方法を模索するとしたら、やはり自分が相手よりも大人になるしかなかったなと。相手の方が10も年上でしたけど。きちんと自分と相手を線引きをした上で、相手を受け入れるしかなかったのかなと思います。まぁどのみち、現実には無理でしたでしょうね。
ただ一つだけ、現在も夫婦関係でお悩みの方におせっかいを言わせていただけるとしたら『相方を受け入れる=あなたが全てを譲らなければならない、ではない!』ということだけは伝えたい。
受け入れる、と、何でも相手の要求を呑む、は別物です。そして相方という自我を抑圧(攻撃)しなければ、こちらの意見を主張したっていいんです。
不満に思いながらも相手の要求を呑んでしまうと、自分の自我が抑圧されます。その抑圧された自我が、怒りとなって相手の自我を攻撃します。だから自分が納得いかないことは、きちんと理由をつけて、相手の希望に添えられないことへの謝罪も添えて、お断りする。例え夫婦間であっても生活共同体であっても、個人と個人の線引きはしておいた方がいいと思うのです。
すいません、言いたいこともう一つあった。
愛も情もなくなったら、生活を共にする相手を受け入れるのは多分、無理です。先に相方を愛し直すのが先です。それか離婚するか。嫌いな相手を愛する方法はまた長くなってしまうのでここでは書きません。気が向くか、リクエストがあれば書くかもしれません。
特殊カップル(うち)の場合
最後にうちの場合を事例としてシメさせていただきます。
彼氏さんは社会的ステータスはダメ人間ですが、他人を受け入れる力は神レベルという珍しい存在です。彼氏さんは強い(無自覚に賢い)ので、自身の状態も客観的評価も理解していて、その上で自他の線引き、自他の受け入れができます。極端な話、社会的活動や自分のことはどうでもいいからやらないのです。私はギフテッド(自閉傾向)なので、内面世界以外にはあまり興味がありません。だから、自分も他人も全て受け入れて正直に生きている彼氏さんに惹かれたのでしょう。
さて、問題は、彼氏さんは社会的にはダメ人間だということです。彼氏さんと一緒に暮らしたい! 結婚したい! とこだわっていた時は色々と葛藤がありましたが、結局、彼氏さん自身が自発的に自分の現状を変えなければダメなのだなと思い至り、あーだこーだ言うのをやめました。お金の貸し借りもナシにしました。つまり、私自身が彼氏さんに依存させてもらえていたことで自立しました。そして社会的にダメな部分も全部含めて、受け入れることにしたのです。ただ好きでいることにしたのです。
それが彼氏さんにとって、絶対的に愛されている自信、という土台になったかは分かりませんが。
食うにも困る状況に陥った彼氏さんが、私に頼るのを思いとどまったことを、私は密かに知っている。なあなあの甘えた関係にせず、自力で責任を取ろうとしたことを知っている。
(注)ただし私が結婚というこだわりを捨てられたのは、①すでに私が子宝にも恵まれていて、②なんなら自分一人でも子供を育てていくだけの手段もある=相手に『行動制限(ひいては自我の抑制)』を強いる必要がない、という条件が整っているからなんですね。子宝の点では、元旦那に感謝しないといけないな。
あなたがあなたであることを
正直、キツい。愛する人のデッド・オア・アライブを、ただはたから見守っているだけ、というのは。自分が被害を被ったり、身銭を切ったりするよりもはるかにキツい。
例えば、子供自身の問題や課題を、心配のあまり先回りして処理してしまう親を考えてみてほしい。私には今、その気持ちが痛いほど分かる。そしてそれをしてしまわないよう、必死に堪えているのだ。
彼が今、窮地に立たされているのは、彼の人生の結果であり、彼の生き様のツケである。その窮地は彼が自分で解決しなければならないし、もちろん彼自身もそうしようとしている。それを、私が心配だからといって横からあれこれ世話を焼いてはいけないのだ。それは単なる私の自己満足にすぎないし、自己満足のために彼という存在そのものの在り方を侵害してもいけない。例え最悪、彼の命に関わる問題だとしても、彼自身を汚すような真似はしてはならないのだ。
私にできることは何もない。余計なことをせず、彼が自力でこの窮地を脱するのを信じるだけだ。
今日食べるものがなくても、行政に頼らなくても、生き抜く力の強い彼のことだ。多分、なんとかするだろうとは思う。それでも大好きな相手であればあるほど、はたから見たその窮状が切羽詰まっているほど、手を出してしまいたくなる。
仮に私が手を出したとして救えるのは、彼の肉体という、からっぽの入れ物だけだ。その中に収まっている彼の本質は、私の余計な干渉のせいで傷ついたり、歪んでしまうかもしれない。否、もしかしたら私は、そういう余計な干渉をする人間だ、と彼に思われ、嫌われるのを恐れているだけなのかもしれない。
どちらにしても確実なのは、耐えるしかない、ということだ。私が彼に生きていてほしいと思うのは、彼のためではなく私のためなのだ。私が余計な手を出せば、他ならぬ私自身の手で彼という存在をダメにしてしまう可能性がある。彼が彼であることを潰してしまう。
本当ならそれぞれの生活を送る中で、彼からの吉報が届いて初めて、良かったね、と言えるくらいがいい女なのだろうけれど、残念ながら私にはまだそこまでの胆力は備わっていないようだ。だからここに書くことで気持ちを整理して、落ち着かせている。
頭では分かっていてもなかなか気持ちがついていかない未熟な人間。それが私だ。
ぶつけてはいけない私欲を、こんなところに書いて捨てている私の未熟さなど、あなたは生涯知らなくていい。