【ギフテッドな日々】障害と天才の挟間より速報

動作性IQ141ギフテッド。そんな人の視点から見た世界をつらつらとつづっていきます。

自分と世間の常識は、相手の非常識かもしれないという話

 我が息子は小学校二年生だが、いまだに児童館でおもらしをしてくることがある。
 原因は大体、本に夢中になってしまう事。息子は無類の本好きである。どのくらい好きかというと、休み時間には図書館に行ってブラックジャックを読み、家では市立図書館で借りてきた本を読み、買ってもらった本も何度も読み返す。こども新聞も購読中である。

 本が好きなのはとてもいい事だ。しかし時と場合と折り合いをつけなければならない事もあるはずだ。児童館では、おやつの時間を拒否してまで本に没頭する日もある。本を優先するあまり、おもらしをしてしまう事も。

「二年生になっておもらしは恥ずかしいよ」「お友達にも嫌われちゃうよ」等々言ってみたのだが、いまいち効果がない。そこで本人と問答してみた。

 私「例えばさ……五年生になった時に、本に夢中になっておもらししてたとしたらどう? 恥ずかしくない?」
息子「うーん……あ! それはやばい! さすがにはずかしいよ」

 よかった、最悪でも小学五年生になる頃には本人の自覚によって、おもらしは治りそうだ。

 私「じゃあ今は? おもらしして恥ずかしくない? 二年生」
息子「うーん……今はまぁ、ギリかな」

 なんと、ギリ大丈夫なようだ。まだ周りにもおもらしをしてしまうお友達がいるからだろうか。

 質問を変えよう。

 私「じゃあ息子ちゃんの、“本が読みたい! 今読みたい! だから読んじゃう!”っていう気持ちと、“おもらししたら恥ずかしい、お友達にも嫌われるかも!”っていう気持ちとでは、どっちが大きい?」
息子「んー……」

息子「おんなじくらいかな!」

 !!!!!

 なんとまぁ……読書の方が上、とまでは言わなかったものの……
 言い換えれば今、この瞬間に読書をしたい、という気持ちを満たすためならば、おもらしも仕方がない、という感覚のようなのです。

 おもらしがよくない事だ、という事自体はちゃんと分かっていて、自分のせいでなった事に大してはちゃんと責任を取りなさい、という教育もしているので、息子は普通に、おもらしパンツ&ズボンを自分で洗います。自分で責任を取っているので、それはそれで完結、という事なのでしょうか。
 親としては、おもらしをするデメリットの方が大きい(恥ずかしい、下着が濡れて気持ち悪い、臭くなる、お友達に嫌われるかも)という前提で話をするのですが、息子からしたらその前提自体が違っていたんですよね。

 これって別に我が家だけの話ではなくて、人間関係全体に言える事でないでしょうか。いくら言っても部下が言う事を聞かないとか、友達と話がかみ合わないとか、自分が常識だと思っている前提が、相手にとっては違う、という事。結構ある気がするんです。

 こうすればいいのに、ああすればいいのにと、人は良かれと思って、自分の成功体験や方法論を得意げに話す。目に見えるものだけを捉えて、自分がそうだったから相手も同じように悩み、同じように感じていると思い込む。

 会話って自分の主張を押し付けるためのものではなく、お互いに分かり合うためのものだと思うんですよね。相手を知る事が大切。相手に話してもらう事が大切。自分の体験と重ね合わせて分かった気になるのではなく、まずは聞いてみる事が大切。という事。それが私を救ってくれた、“相手を承認する”という事に繋がるのかもしれません。