【ギフテッドな日々】障害と天才の挟間より速報

動作性IQ141ギフテッド。そんな人の視点から見た世界をつらつらとつづっていきます。

発達障害持ちが生き甲斐を感じられる世界について真面目に考えてみる

 一つ前の記事でも少し書いたのだけれど、現代社会には大多数の人が楽に“生存”出来るような枠組みが敷かれている。
 生まれながらに、その枠組みにうまく対応できない特性を持っている人を、世間では発達障害と呼んでいるようだ。

 命というものはただそこに存在しているだけで素晴らしい。みんな違ってみんないいハズなのだ。基本的には多数決で社会のルールが決められている以上、当然、そこからはみ出す少数派も存在する。でもそれでもいいじゃない、人が作った後付けのルールよりも、あなたの命、あなたの意志がこの世に存在する、っていう事の方が前提になっているんだから。そう思うのだけれど。

 後付けの現代社会に適応出来ないと何がまずいかって、大前提であるはずの生存そのものが危ぶまれるからなんですよね。
 社会の一員として何かしらで人類全体に貢献しないと枠組みには入れない。社会は生活保護とか障害者年金とかでそういう人達も枠の中に入れてくれようとするけれど、それは枠組みの外を囲う枠組みというか、世界の循環の、流れが遅いところにあるもののような気もする。

 少し話がそれますが、そもそも発達障害っていう言葉があんまりよろしくないじゃないかな、と。
 私がよく読ませてもらっている望月志乃の ひびわれたまご|ADHD主婦さんの記事にもコメントさせていただいたのですが、定型発達(社会に適応できる一般的な人達)、不定型発達(いわゆる発達障害)という分類が世間に定着すればまた印象が違うと思うんですよね。多数決で決まった後付けのルールにはまらないという事が、障害扱いされてしまうのはいかがなものだろう。

 かといって、より多く、より広範囲の人が“生存”できるようにカスタマイズされてきた仕組み自体を否定するつもりはなくて。
 ましてや誰もが無条件に“生存”を保証してもらって当たり前、などと言うつもりもなくて。(働けない人は死んでもいい、という意味ではないです。現実問題、なにかを保証するという事は誰かがその分のコストを負担している、という事になるので、当然、負担側の不公平感や享受側の罪悪感などが出てくると思うのです)

 自給自足でも互助的コミュニティでもなんでもいいから、不定型発達がありのままに“生きて”、“生存”できる新しい仕組みがあればいいんじゃないかなと思う次第であります。

 そう考えると、昔に比べて今はまだいい時代なんじゃないでしょうか。こういうブログなんかで自分のペースで自己発信をして、広告収入を得ている方もいらっしゃいます。こういうのは“生存”と“生きる”を両立させられるいい例ですよね。

 まとめると、

 ①自分のペースで、ただし自分の責任においてできる仕事がいい→自営業(自給自足)
 ②定型発達をメインに作られた社会の枠組みに合わせるよりは、非定型発達同士でコミュニティを築いた方がいい
 ③ただし、全ての命を制度によって“生存”させてくれようとしている、現行の社会への感謝も忘れない

 今言える事としては、こんなところでしょうか。私がMENSAに興味を持っているのも②の理由からですしね。

 あ、①とは少し矛盾するけれど、これ、非定型発達の人だけの会社とか作れたらすごいなぁ。働き手の需要は大いにあると思う。思い付きだから具体的に何をする、とかまでは別にないですけれどもw
 もし賛同していただける方がいらっしゃれば、ぜひご意見を伺いたいのでコメントはいつでも受付中です!