自閉症スペクトラムは世界との一体感がないのかもしれない
今日、ふと気付いた。
つい最近まで、自分が自閉症スペクトラムだなどと微塵も思わずに生きてきた訳ですけれども、もしかしたら自らのここが、
・自閉症スペクトラムと呼ばれる傾向。
・普通の人とは、感覚的に違うのではないか?
という部分に。
今の旦那様との対比
今の旦那様は普通の(一般的な感覚の)人として、とても頭が良い。そしてとても、“なるようになるさ”主義で、達観している。
普通の感覚を持ちながら頭が良く、しかも出来た人格をしているので、私のATフィールドを越えて話ができる。私の感覚で言う天才、人格者って、ちょっと変わった人が多いのでとても珍しく感じるのですが。
ともあれ、そんな普通の感覚を持つ旦那様の話を聞いていると、本当に交友関係が広い。そして色々な事をやっている。
ちょっと対比してみましょう。
【交友関係】
旦那:少し外に出れば、どこかしらに必ず知り合いがいる。県外、海外にもいる。
私:極端に狭い。年賀状も出さない(実際に交流がないのに形式的で無駄だと感じてしまう)。
【趣味】
旦那:フットサル、スロット、ドラマを見る、その他もろもろ人との絡みでなんでもやる。
私:文章を書く、麻雀(局所的に深い)
【思考】
旦那:あまり物事を深く考えない。
私:とことん突き詰めて考える。
うーん、これだけだとあまりピンときませんね。個性の範囲内、って感じで。
私の感覚からすると、凄く不思議な人間に感じるんですよね。旦那が。
もう少し掘り下げて考えてみる
改めて私の過去のブログエントリーを見ると、内面の話ばかり書いているんですよね。
即物的、と書くと誤解があるかもしれないけれど、今日は何をした、何はどうだった、みたいな話が極端に少ない。私や他人が行動として何をしたか、ということ自体には興味がないんです。それよりも、その時の心の動きがどうだったか、みたいな内面の世界に興味がある。
なので、現実行動における興味の幅自体が狭い。物理的に表現できる興味の対象も、執筆、謎解き、麻雀など、思考や内面が関連するものばかり。麻雀を内面表現と分類する事は賛否両論ありそうですが、個々の思考、心理が交錯するゲームなので私としてはとても面白く感じるのです。
つまり私にとっての世界は、内面が基準で、全て。私にとって現実世界は、内面と言う基準によって派生した世界であり、内包するものに深みを感じない現実にはあまり興味が持てないのです。
旦那は交友関係も趣味の幅も広いけれど、それが特別好きで、やりたくて仕方がない、という感じではない。私は交友関係を広げ過ぎると、対処できなくなってしまう。一人一人に興味を持つには内面の掘り下げを行わなくてはならないから、手いっぱいになってしまうのです。
自分に対しても他人に対しても興味は内向き。物理的な実世界とつながれない(つながりがたい)。それが自閉、と評されるゆえんなのでしょう。
自閉症スペクトラムが世界とつながるには
絶賛模索中のこのテーマですが、こうしてブログ等で正直に自分を発信するのも一つの方法かなと思っています。実世界ではここまで深く話をする機会ってなかなかないですし、それで少しでも興味を持ってくださった方とつながれれば、それだけで一歩前進なのかなとも思います。
要は何らかのツールを使うことですよね。触媒、というか。私が毛嫌いしていた資格とかもそう。外や他人とつながるための触媒だと思えば、また見方も変えられそうな気がしています。
今からでも私が実践することで、自閉症スペクトラム当事者の私がこれまで出来なかった、知らなかったことも息子に伝えていくことができる。それは私にとって、息子という他者とつながれる、とても喜ばしいことなのです。