【ギフテッドな日々】障害と天才の挟間より速報

動作性IQ141ギフテッド。そんな人の視点から見た世界をつらつらとつづっていきます。

躾に対する子供(※私)の不満とその本質

 

小学生くらいの頃から、私は怒られることが嫌いだった。いや、怒られるのなんか誰も好きではないと思うが、怒られたことに対して、反省も納得もしていない時の方が多かったように思う。

先に宿題を終わらせない、片付けをしないなど、怒られる理由は大体ありがちなことである。そして怒られた時の反応も、「うるさいなぁ」「あとでやるから!」「別にいいじゃん……」などなど、これもまたありがちなものだった気がする。それに次ぐ親の反応もそうだ。「“うるさい”じゃない!」「ゲームは宿題先にやってからでしょ!」「いいわけないでしょ!」……で、大体、舌打ちかケンカで〆になる。

 

自分の親の元でしか育ったことがないのでよそは分からないけれども、このパターンは結構多いのではないだろうか(どうなんだろう、最近は口うるさく言わないお母さんも多いのかな?)

上記のような展開の時、私の心の奥底には必ず“なんで?”があった。「どうして宿題を先にやらなければいけないの?あとでちゃんとやれば同じでしょ?」とか、「どうして片付けなければいけないの?どうせまた出すし、散らかっていても死ぬわけじゃないんだし」とか……

「やらなきゃいけないことは先にやっちゃいなさい!」という親の言い分に対して、子供の私は、(私は今、ゲームがやりたいの!宿題忘れたことなんてないし、順番なんかどうでもいいでしょ!)と思う。片付けることによる利点を教えられても、大して魅力は感じなかった。そもそも叱責に対して「どうして?」を口にしようものなら、最終的には「屁理屈を言うな!」で片付けられてしまう。

 

これって屁理屈なんだろうか。

子供の私は別に親をやり込めてやろうと思っていたわけではない。納得がいかないからその理由と共に不満をぶつけていたのだ。せっかく子供がありのままを言ってくれているのにそれを屁理屈、と切り捨ててしまったら、子供は落胆し、ますます反抗的になってしまう。また、子供は親が教えたいコトの本質(心)を理解しないまま、ただ“そういうモノだから”“やらなくちゃいけないモノだから”、と思考停止に陥ってしまう。

 

そもそも親でさえ、子供に教える躾を、自ら本質(心)から行えているのかどうか疑問だ。

行動の全ては本来、思考や心の中が元になって表れるはずだ。その行動が出る本質を理解せず、大人になっても“そういうモノ”だからという説明しか出来ないのはいかがなものかと思う。例えば親が“片付けは面倒だけれど、した方がいい”という気持ちでいたら、その本質には“片付けは面倒、だけどやらなきゃいけないこと”という気持ちが含まれている。本当は、“片付けの手間を差し引いても余るくらいのメリットがあるから、片付けをしたい!”と思える心を育てることこそが躾なんじゃないかなぁと思うわけである(ちなみにここでいうメリットとは物理的なものに限らず、気持ちの余裕とかそういう心理的なものも全て含めた意味)

 

子供だから難しいことを言っても分からない、だから形から入る、とにかくやらせる、というのは思考の怠慢じゃなかろうか。言葉がダメならツールでも態度でもなんでも使って、とにかく“心の部分”を伝える、ということを諦めてはいけないのではないのだろうか。

 そのためにはまず、親が本質を身につけていなくてはならないと思う。

頭で分かっている、というのではなくて、自分自身の行動はどんな本質から出ているものなのかを知っていなければならないと思う。面倒だけれどやらなければならないから、という気持ちでいれば、子供はそれを本質として受け取ってしまう。これでは面倒ごとに対して自分のモチベーションが上がらないのと同じで、子供のモチベーションが上がらないのも当然だ。口先でいくら躾らしき、綺麗な言葉を取り繕っても、雰囲気だとか表情から本質は滲み出てしまう。

本質を察する能力を持っているのは子供だけではない。大人にだって備わっている。例えば牛乳でも外壁塗装でもなんでもいいのだが、あなたの家に営業マンが来たとする。拒否やノルマを恐れて卑屈なほど低姿勢になっている営業マンと、自社商品に自信を持っておすすめをしてくるベテラン営業マンとでは、同じようなことを言ってきたとしても印象は全く違うはずだ。前者の営業マンがベテランのトーク例だけを丸写ししていたとしても、心が追いついていなければ商品の良さなど伝わってこないだろう。

 

私が時間に追われてイライラしている時に、「早くしなさい!」と息子を急かすと、息子もイライラして逆ギレする。きっと“時間がないのに待たされる私の苛立ち”が伝わっているのだろう。逆に時間に余裕のある休日、「ほら、行こう!」と気楽に言うと、息子も「待って待ってー!」と慌てて準備を整えて出てくる。

 

全てがこのように分かりやすく行く訳ではないし、こちらの心次第で、一発で相手の心が変わる、なんていうことはあまりないかもしれない。子供が成長の過程で自ら考え、気付き、大人になってから“型通りの躾”の本質となる心を理解する、ということの方が多いのかもしれない。

けれども、親の背を見て子は育つ、とはよく言ったもので、親自身が本質のお手本になれればその方が子供の成長は早く、その早まった分、別の部分の成長に充てられるのではないかと考える次第であります。

 

などと偉そうに書いた割には、私も3回に1回、いや、2回に1回は、“子供が思い通りにならない”という自分の感情のために怒ってしまう未熟な親だったりする。

ただ息子を必要以上に怒ってしまった後は、クールダウンの後、自分が悪かった部分に関してはきちんと息子に謝ることにしている。自分の非を謝れない親が、“子供はきちんと謝れる子に育てたい”、とはどう考えてもムシが良すぎる気がする。