【ギフテッドな日々】障害と天才の挟間より速報

動作性IQ141ギフテッド。そんな人の視点から見た世界をつらつらとつづっていきます。

上司から受けたストレスを掘り下げたら戦争の原因にまで発展した話

 ストレスの定義 

30代になってからでしょうか。

怒りやストレスを感じた後にふと立ち止まり、自分は今の出来事のどこにストレスを感じたのか、と振り返るくせがついたように思う。そうすることで自分自身を分析し、次に似たような出来事があってもストレスを感じなくてすむように、自分自身をカスタマイズしていっている。

 

そもそもストレスは他人から与えられるものではなく、自分自身が感じるものだと思う。例え怒鳴られてもけなされても、自分がそれをストレスに感じなければへっちゃらなのである。

私は元々短気で尊大な人間なので、20代前半くらいまではあらゆることを他人や環境のせいにしているふしがありました。職場の方針やら家族やら元旦那やら、周りが自分の理想とは違うのでそれに腹を立てていたわけです。

しかしながらいくら私が腹を立てても、周りが変わってくれるわけではない。当然です。価値観や理念や優先順位は人それぞれ全く違うのですから。私だって他人が掲げる主張に合わないからといって、お前の価値観をこちらに合わせろ、と言われたらごめんこうむる。

 

で、本題。 

先日(といっても2、3か月ほど前の話ですが)、この価値観の相違が起こりました。

いや、多分そんなもの日常的に頻発しているのでしょうが、重要なのは私がその相違に苛立ちを感じてしまった、という点なのです。つまり、私の価値観では許容できない=私にとってのストレスの源。そういうストレスの源を一つずつ潰していけば、いずれはストレスフリーの仙人の境地に達するのではないか、というのが、本ブログの主旨でもあります(笑)

 

 実際に何が起こったか 

仕事上の話である。Tさん(私の所属しているチーム)とMさんのチームは、年間成績のトップ争いの最中でした。

Tさんはチームリーダーとしてはかなり適当で、部下をきっちり管理するという観点ではダメな部類の人である。しかし自らも実績にサポートによく動き、部下には一言言うけれども基本的には野放し、といった感じのスタイル。

一方のMさんはとにかくなんでも1位でないと気が済まず、自分の実績欲しさで部下にプレッシャーを与えてくるタイプ。逐一部下の行動を把握し、カツカツに行動させて実績を上げようとするスタイル。

きっかけは、うちのチームのS子の帰社が遅れた、ある曜日の事でした。

 

Mさん「S子ちゃん、今日遅いね?営業頑張ってるのかなぁ?」

先に帰社していた私に声を掛けてくるMさん。

私「どうでしょう?毎週この曜日は大変だって言ってたので、それで遅くなってるんじゃないですか?」

分かっている事実から当たり障りのない返答をしたつもりでした。これに対するMさんの返答が以下。

Mさん「えー、うち(のチーム)はそんな泣き事言わないもんねー(自分のチームメンバーに視線で同意を求めながら)」

 

え?

 

いや待て。私達がいつ泣き言を言った?帰社が遅くなる理由が、普段のルート回りが重い、だと泣き事になっちゃうんですか?そのせいで(新規営業できなくて)大変ですー、っていう泣き事になる、っていう脳内変換ですか。

 

いや、今思い返せば本当に些細なやり取り過ぎて、ここに書くのも恥ずかしいくらいなんですが。どこにイラついたかと言えば、自分(達)を上げるために他人を落とす物言いですよね。ほんの一言だけれど、それが私に火をつけた。

 

よし、うちのチームのやり方で、こいつをぶっ飛ばしてやろう、と。

 

Mさんは成果を上げるための仕事人としては優秀なのかもしれません。Mさんに追い込まれた事が原因で人が辞めても鬱になっても、残ったメンバーを120%以上働かせて数字を上げているわけですから(私が以前、Mさんの下で働いていた時は、信じがたい事に最終的にチームの半数が欠員になってしまいました)。ただ、私の価値観には合わなかったのです。

私は現チームリーダーのTさんと馬が合うこともあり、Mさんの「自分達も大変だけど、おたくと違って文句ひとつ言わない強くて優秀なチームなんです」と言わんばかりの発言が許せなかった。それまでは私個人としては、チーム成績1位争いにさして興味はなかったのだが、これが元でどうしたってMさんには負けるのは癪になった。うちのチームが1位を取ることで、きゅうきゅうに管理してやるよりも、部下が自発的に動く方が強いのだということをMさんに思い知らせてやりたかったのです。

 

以下反省

 

しかし。

 

しかしですよ。

 

この私の感情も、結局は自分の価値観の押しつけに過ぎない訳ですよね。

Mさんのやり方云々は関係なくて、私は私のやり方でやるだけです、っていうのが大人の対応というか。自分がどうするかは自分で選べるけど、相手をどうにか変えてやろう、は無理ですよ、というのが通説な訳で。Mさんに直接的に変化を求めていないただの自己満足だったとしても、Mさんの存在に怒りを覚え、対抗意識を燃やしている時点でそれは私の負けのような気もするというか。

 

つまり私の感情を要約すると、“価値観が合わない、気に入らない相手(Mさん)を負かしてやって、お前のやり方なんかじゃダメなんだ、って間接的に証明して優越感に浸りたい”だけなんです。最低ですね。

 

 私程度のレベルだと、自分に合わない人にも感謝できるといいですね!みたいな言葉にまだまだ反発心を抱いてしまうのですけれども、ちょっと長くなってしまったので、その事についてはまた機会があれば、掘り下げ考察してみたいと思います。

 

余談兼後日談

 

結果的に、私の所属するTさんチームはその期、全県1位になりました。

ただ、チームで1位を取りたい!という気持ちに同調してくれたメンバーもいてくれた一方で、正直そこまでしたくない、と思っていたメンバーもいたと思います。その事に気付いてからは、結果はどうなるか分からないけれども、他人に強要する事なく自力の範囲内でチーム成績に貢献する、という事に集中しました。興味のない人にこちらの思いを強要してしまったら、結局、私が嫌ったMさんと同じになってしまいますしね…… 

 

で、1位になって溜飲は下ったかというと、Tさんチームで1位を取れた(Mさんチームと勝負した事自体とは関係ない)喜びと、ほっとした気持ちの方が強かったです。Mさんざまあみろ!みたいな気持ちは全然湧いてこなかったですね。これ逆に1位を取れていなかったら、ひたすら虚しさと徒労感だけが残ってたんじゃないでしょうか……

そう考えるとやっぱり価値観の正しさを掛けた勝負は空しいだけですね。

勝ち負けを決めるのは、ルールにのっとったゲームや競技だけに限った方がいいかもしれません。価値観は自分の中で貫くものであって、正しさを証明するものではない。どちらの価値観が正しいか、白黒つけようとした時に戦争が起こるのかもしれませんね。