【ギフテッドな日々】障害と天才の挟間より速報

動作性IQ141ギフテッド。そんな人の視点から見た世界をつらつらとつづっていきます。

老害化していく親を、指をくわえて見つめる

 ここ一年ほど、どうにも父親とうまく接することができないので文章に起こしてみることにする。

 私の父は高校を出てから飲食業一筋に働いてきた人間だ。
 全国展開している某グループの甲信越副社長にまで上り、50になってから独立した。自分で出した店を2店舗を経営して、早10年になる。

 こうして書くと本当に色々と苦労してきたのだろうし、すごい人なのだと思う。行動や言動を見ても、自社社員や家族のことも考えてくれている。

 そんな父と、何故折り合いが悪くなったのか。
 それは父がいまだに“昭和”を生きているからなのだと思う。

父の店の現状

 美味いものを食べてもらって、呑んでもらって、お客さんに喜んでもらう。

 シンプルで明快な信条を掲げた父の店は、10年続いている。これはすごいことだ。10年続いているということは、お客さんにも喜んでもらえているということだろう。週末になれば満員御礼。繁盛店、といっていいだろう。

 当然、店は忙しい。しかし田舎のためか、求人の募集をかけても人が入ってこないのだという。
 入ってきたとしても、すぐに辞めてしまう。残るのはベテラン社員を含め、他に行くあてのない年代の人達ばかりだ。私も、どうしても人が足りない時に、ヘルプで二、三度バイトに入った事があるが、あれが毎日続くかと思ったら正直、父の店で働きたいとは思わない。

 拘束時間も長い。

 社則上は15時から勤務になっているが、13時には社員は全員出勤、が暗黙の了解になっている。いや、暗黙ではない。若い社員が15時近くになって出社した時には、店長に「遅刻」扱いされたそうだ。さすがにこれには父も一言、店長に苦言を呈したらしいが、これまでこのやり方でやってきた、という自負があるせいか、13時には出勤、は今でも変わらないらしい。

 開店前にスタッフ全員揃ってごはん。閉店後にも揃ってごはん。
 親睦や連帯感を深めるため、と言われればそうかもしれない。ここにも「これまでこのやり方で売り上げを上げてきた」という自負が見て取れる。そしてこれもまた、暗黙の了解になってしまっている。

若いスタッフの意見

 上記の現状に対して、今父の店で働いてくれている若手社員三人の意見はこうだ。

①給料に対して仕事がハード過ぎる。
②実際の仕事に必要のない拘束時間が長すぎる。

 ①に関して言えば、よくある問題ではあるとは思う。しかしよほど飲食の仕事が好き、というのでなければ、同じような給料でもう少し楽な仕事はいくらでもあるだろう。

 ②に関しては、仕事は仕事。そうでない時間はプライベートに充てたい、という意見だろう。

 ※ちなみに若手社員三人の中には、もう40近い私の旦那も含まれる。40が若手に含まれてしまう時点で、父の店の現状がお分かりいただけるかと思う。

 どちらかと言えば、私も圧倒的に若いスタッフ側の意見に同意だ。なのでブログも、どうしてもそっち寄りの意見になってしまうが、もし私の父(父の店)側と同じ意見だという人がいたら、ぜひ思い切りコメント欄に批判を書き込んでほしい。当の父とは、もう話をする気力がない。

世代による仕事観のギャップについて

 父と父の店は、昭和の時代を引きずっている店である。もう平成の時代も終わろうかというこの時代に、仕事への価値観が昭和なのである。

 それはお客さんにとっては良いことなのかもしれない。でもこれから先、この店で働く若い人たちにとってはどうか。

 仕事が大事。仕事に情熱を。仕事が何よりも優先されるべきもの。
 みたいな風潮は、受け入れられるだろうか。


 美味いものを食べてもらって、呑んでもらって、お客さんに喜んでもらう。


 そのために、料理の質を下げたり、価格を上げたりしたくないのは分かる。作業効率化のために機械を導入するほどのお金がないのも分かる。

 でもそれがために、社員の待遇は改善されない。
 従業員を楽にする、という頭は始めからない。とにかく頑張る。熟練度頼みの効率化。それのみである。


 父は自分がやってきたこと(店)を、どんな形であれ後世に引き継いでもらいたいと思っている。(自分が働けなくなった後、そこから収入を得たいという思いもあると思う)

 であれば、「今までこれで売り上げを上げてきたんだ」という自負にすがるのではなく、次世代を担う働き手に合わせて、変わっていくことも必要なんじゃないかと思う。その売り上げは、今の条件で働いている人達が、働けなくなったら成立しなくなるものだ。新しい働き手達が居着きたくなるような風土を作らなければ、父の店は父の代で終わるだろう。

老害化していく親を、指をくわえて見つめる

 父は、今よりも“働く”ということに厳しさがあったであろう時代に、ひたすら働いてきた昭和の人間である。その頃の自分を正当化するために、父の中では、“仕事=苦労するもの、大変なもの”という情報が正義なのだろう。

 昔の苦労話を誇らしげに語ったり、「最近の若い奴はネットで楽して稼ごうとして……」などと言っている父を見ると、何とも言えない気持ちになる。

 私が離婚した時、亭主関白的な発言をした元旦那に「今はもう、そういう時代じゃないからなぁ」と言ってくれていた父が、今、自覚なく時代に置いていかれようとしている。でも父にとっては、自分の生きてきた時代に培った価値観こそが曲げられない“自分”なのだ。

 私にそれを制するすべはない。権利も、ない。