【ギフテッドな日々】障害と天才の挟間より速報

動作性IQ141ギフテッド。そんな人の視点から見た世界をつらつらとつづっていきます。

それでも一人では生きられない

 ブログを書き始めると人様のブログもちょこちょこ覗くようになるのですが、やはりとても悲しい思いをされたり、壮絶な体験をされていたりする内容のブログは目を引きます。コメント欄を見ても、本当にみんな、それぞれ辛い体験を乗り越えてきているんだなぁと胸が苦しくなる事もあります。

 

 もちろん、私にも当時、辛かった体験はあります。けれどもなんだろう。たまに思い出す事はあるけれど、今となっては取り立てて書きたいほどの事ではなくなっているのです。世の中で本当に辛い、どん底の思いをしている人達に比べれば、自分の経験なんて大した事ないな、と思ってしまいますし、今では全て自分の中で整理が出来てしまっている、という事なのでしょう。

 

 例えば元旦那。

 離婚する前の一年間は、元旦那が仕事を終えて帰宅する時間が近づくと、毎日「交通事故にでも遭って死んでてくれないかな」と本気で願ってしまうほど憎んでいました。離婚して3年ほど経った後でも「あの人の事だけは一生許す事はできない」と思っていましたしね。

 

 でも人間ってすごい。日々、他人という情報源から、様々な考えや思いを自分にアップデートしていくんですね。(それと同時に古い記憶からは当時の激情だけが風化していく……)

 今の旦那様に、生まれて初めて自分の存在をまるごと承認してもらえてから、私の価値観はがらりと変わってしまった。だからといって敢えて元旦那とやり直そう、などとは思えなかったけれど、許す許さないではなくて、元旦那という存在そのものを認める事は出来るようになっていた。

 

 そもそも怒りって、「自分の思いを、価値観を認めろ!」っていう叫びなんだと思う。思いや価値観ってその人の存在そのものだから、言い換えれば、“自分”というものを受け入れてほしい、っていう他人への願い、とでも言いましょうか。それは評価とか一歩離れての意見とか、ましてや否定を欲しがっているのではなくて。ただただ自分以外の誰かから、自分の在り方を認めてほしい。っていう純粋な願い。

 今の旦那様は当たり前のように、全ての人にそれが出来る人でした。神なのでしょうか?(笑) だから滅多な事では怒りはしないし、承認がいったいどういうモノなのか、体感で教えてもらえた私もほとんど怒らなくなった。

 

 人って他人に触ってもらえて、初めて自分のカタチが分かるんだな。(←なんかの歌詞みたい)

 

 一生に一度でも誰かに承認してもらえたら、きっと人は遥かに心穏やかになれるんだと思う。でも世の中には、自分と違って当たり前の他人を承認出来る人が少なすぎるから、それが怒りになって争いが起こるのかな。

 

 ただ、人殺しや誘拐犯までを承認してしまうと多くのみんなが危ないから、大多数の人が正しいと思う事が常識になり、法律やルールで統制するようになったんだよね。けれどもその法律やルールのせいで苦しむ人もいるジレンマ。文明社会を生きる人間にとって、正しさは多数決である。それに違和感を感じているから、今は個人が自分を発信する時代になっているんだろうね。あれ、話がちょっと横に逸れた気がする。

 

 とにかく元旦那様へ。

 当時はあなたを受け入れてあげられなくてごめんなさい。あなたの「俺を受け入れて!」はとにかく強烈でした。つわりがひどかった時に、食事のわがままを聞いてくれた事には感謝しています。

 

 でも言いたい事はこれくらいかな。あ、あとはブログのネタにしてしまってごめんなさい(笑)