「ありがとう」が言えない理由
うちの息子は「ありがとう」が言えない。
言えない訳ではないのだけれど、本来、言うべき場面で言えないことが多いのだ。
今回は言える時、言えない時のケース別に分けて、その理由を探っていきたいと思う。
「ありがとう」が言えるケース
息子は幸せな時間を過ごしている時、「ぼくを産んでくれてありがとう」「いつも僕の味方でいてくれてありがとう」と言ってくれる時がある。
これは誰に強制される訳でもなく、息子自身が自発的に口にするのだ。すごいことだなと思う。
同時に、息子の特性を理解し、受け入れることが、本人にとってとてもありがたいことなんだということが理解出来る。
あとは、困った時に助けてもらった時や、ちょっとしたお願いを聞いてもらえた時なども、気軽に「ありがとう」と言える。
「ありがとう」が言えないケース
代表的だったものを列挙してみる↓
・旦那様からクリスマスプレゼントをもらった時
・私の知り合いの店でデザートをサービスしてもらった時
・ひいおばあちゃんからお小遣いをもらった時(←最近は言えるようになったらしい)
何故「ありがとう」が言えないのか、直接、息子に聞いてみた
「人から物をもらったりした時、どうして“ありがとう”って言えないの?」から切り出し、少しずつ質問を変えて掘り下げてみた結果、以下の事が分かってきた。
・“気持ち”に寄り添ってくれた時、応えてくれた時は、感謝の気持ちを感じる。
・物をもらった時は、そういう気持ちが湧いてこない。
・自分の心からの言葉ではないから、「ありがとう」と言うことに違和感を感じる(相手に嘘をついている気分になる)。
……なるほど。すごく分かる。
この息子の意見に共感できるのは、私も自閉症スペクトラム傾向だからなのだろうか。
自閉症スペクトラムは“物(外界)”に対しての興味や執着がない
私は人生経験から、こういう時はお礼を言う時、こういう時はこういう反応をするのが喜ばれる、という対処方法を身につけているから、礼儀的に「ありがとう」と言うことが当たり前になっている。しかし物をもらった時など、本当にそこまで嬉しいかと言われたら実はそうでもない。そうした方が相手が喜ぶから、相手が一番望むであろう反応を返しているだけなのだ。
普通の人にもそういう傾向はあると思う。しかし自閉症スペクトラム(私と息子)にとっては、“自分の心に反する言葉を放つ”ことこそ相手に対して失礼であり、この“世間とのギャップ”こそが耐えがたいジレンマになるのだ。
考えてみれば、私も若い頃、今、息子が直面している問題と全く同じことで悩んでいた記憶がある。
「ありがとう」を言えるケースにある共通点は、相手と自分との間に内面のつながりがある場合、だ。
逆に「ありがとう」を言えないケースは、内面がつながっていない……言い換えれば、内面の交流が不十分である場合が多い。
物をくれる=そこになんらかの気持ちがこもっている、とも限らない。
一方的に押しつけられる“物”や、一方的に叶えられた“物”は、相手から息子への一方通行だ。息子自身から出る矢印が向いて、初めて“内面がつながる”ことになる。
自閉症スペクトラムは、自分自身と外の世界(物理的な世界)が剥離している。“物”と“気持ち”があったとして、“物”が先行して運ぶ物事には、心が動かないのだ。
自分と世間、どちらを優先すべきか
私は世間と共存するために、世間の常識に尺度を合わせて生きてきた。生きるほど、世間と自分との剥離がひどくなっていっている気がする。
旦那様は、皆何かしら我慢して生きている。という。そんなの普通だ、という。
みんながそうだから、それが正しいとは限らないと思うのだけれど。
私にとって、自分の感覚を殺して生きることは死ぬほどつらいのだ。
対処法的に、息子の感覚に合わせて「ありがとう」と言わなければいけない理由を伝える事はできるけれども、それが果たして息子にとって最良なのかどうかは分からない。それは“自分の価値観を殺して、周りの常識に合わせなさい”と教える、ということだから。
私が「無理矢理“ありがとう”を言わなきゃいけないくらいなら、もうプレゼントはもらわない方がいいかもしれないね」と言ったら、息子は「その方がマシだ」と頷いた。7歳の息子のジレンマは、物欲よりも遥かに強い。