結婚したいが躊躇する
本日はまたまたよそ様のブログから影響を受けたことを。
ブログってすごいですね。こんなにも簡単に、他人様の素晴らしいところや、はっとさせられるような発想に巡り合える。
このブログ記事の中で、私がもっとも感銘を受けたのが以下の文章。
自分の中にある社会不適合な部分とぶちあたったとき、さて、どうする。生きている限り人間は岐路に立ち続けるよね。岐路って、要するに「人並みに合わせる」か「自分のままで行くか」の二者択一だと思う。結婚もそうだよね。結婚するからにはちゃんとしなきゃって思うのか、自分のままで結婚をするのか。保科さんは言っていたよ。おおざっぱに言えば、常に、問われているのは「自分の期待に応えるのか」それとも「他者の期待に応えるのか」の二択だって。
そう、この結婚の部分が、今私の置かれている状況にタイムリーだった。
結婚って、全く違う二つの生きざまが一つになることじゃないですか。そうなった時に、やっぱり摩擦も生まれると思うのです。再婚で子連れなら尚更ですね。どうしてもある程度の安定を求めようとしてしまう。ずるずるとお金が無くなって、生活苦に陥るリスクを回避しようとしてしまう。
この坂爪さんのブログで言っていることは、守るものがあってもできることなのだろうか。
子供という、自分ではないけれど自分が責任を負っている存在があって、自分が自由に振る舞えば自分以外の自我である子供も巻き添えになる、という場合があることも踏まえての内容なのだろうか。
子供という、自分の責任下にある自分以外の自我
私的な、あくまで私的な結論を述べると、子供の存在も含めた上で、自由に振る舞えばいいのだと思う。結局、自分がいいのならいいのだろうし、子供の存在によってブレーキがかかるなら、それが自分にとって最良の道なのだ。
ギフテッドのイメージからは意外に思われるかもしれないが、私はわりと中庸という言葉が好きだ。
偏り過ぎず、足りなさすぎず、淡々とちょうどいいバランスを取っていく思考に惹かれる。人生における悩み事は単一のものではなくて、自分自身と環境、一対一のバランスを取りながら解決していくものだ、と思っているからなのかもしれない。
どんなにもがいたところで、子供は結局、親からなんらかの影響を受けて育つ。
だからといって、虐待やネグレクトも一つの影響のカタチだと開き直って、自分のわがまま放題にすることを良しとは思わない。あくまで私が勝手に、そう思うだけである。
ただサイコパスなど、生まれついて共感性の低い性質の人間にとっては、他人を自分と等しく大事にするのが当たり前、という世の風潮はとても生きづらいのかもしれない。それぞれの人格を尊重する、というような話をする時、私はかならずこういった超マイノリティのことを考えてしまう。彼らを認めるということは暴力や殺人を許容することのつながってしまうので、結局、彼らのことは伏せておかざるを得なくなるのだが、多数決の社会で負けてしまっただけで、彼らとて本来はありのままを尊重されるべき一人の人間なのだ。
……余談が過ぎたので本筋に戻そうと思う。
要は私が言いたかったのは、自分自身と社会全体とを鑑みて、一番バランスのいいところを取っていこうじゃないか、という話なのだ。
もちろん親の立場であっても、自分自身を突き抜けさせていってもいいし、生き延びるために社会に従属するのもいいと思う。
ただ私個人の意見としては、自分の価値観なりにでも、自己主張と協調、両方の可能性を残してあげるのが親心かなぁと思っている訳です。
結婚したいが躊躇する
私の子供へのスタンスを説明したところで、ようやく本題です。
私には本質の部分で惚れた彼氏(いつもは旦那と表記していますが今日は敢えて彼氏で)さんがいます。
経済力は皆無ですけれども関係ありません。彼は彼で食べていくし、私も自分と子供一人ならなんとかやっていけます。引用させていただいたブログの通り、彼は自分の思うままに生きて、現在の状況に至っています。
私はその、自分の思うままに、ありのままに生きている姿が好きです。
彼が私と同じく、天才と呼ばれるような人間だから、そんな人間が今一つ社会に適応できないまま、それでもありのままに生きていると思うと余計にですね。
ただ、私は自分の生活を守りたい。息子の今の生活を守りたい。
もしも彼と結婚するとなったら、選択肢は3つです。
①私が「人並みに合わせて」三人分の生活費を稼ぐ。
②彼が「人並みに合わせて」ある程度安定した就職をする。
③私も彼も「自分のまま」結婚する。
結婚=変わらなければならない、という認識であった私にとっては、今回言及させていただいた記事には本当に気付かされた思いです。
結婚するからといって変わらなければいけない、ということはないんですよね。
①と②は、私と彼氏のどちらかが自分でいられなくなります。
①を選んで、私が自分の人生を諦めるのが嫌、というのはもちろんですが、②の選択肢もダメな気がしています。彼氏を一般社会の常識に当てはめることは、彼氏だけでなく私にとっても、“私の好きだった彼氏”を殺す結果になってしまうのではないかと思うのです。
理想としては③です。
しかしこれには相当なリスクが伴います。
結婚というのは二人(うちの場合は三人)で一つの家庭を築くことです。一蓮托生です。
生存環境的に不安定な彼が崩れたら、私が支えなければいけない。家族になるのだからそれは当然なのだけれども、それが起こる確率で考えると、とても目をつぶれる数字ではない。そうなったら、子供にも我慢を強いることになる。
私は彼と結婚したいと思っている。でも経済的につながるのは嫌だと思っている。
結婚したいのに経済的につながりたくない、って何を言っているのか訳が分からないですね。
結婚、ってなんでしょうか。
私達は家族です、という社会的な証明でしょうか。
今こうして書いていて思ったのですが、経済的につながりたくないのなら、別に結婚しなくてもお互いに好きあっていればそれでいい話なんですよね。もしかしたら私は、結婚という契約を通して、家族であるという証拠、拠り所、そしてそれに伴う安心感が欲しいのかもしれません。
人は縛りと引き換えに安心感を得る
結婚に限らず、仕事などでもそう。
人は自分を縛れば縛るほど、安心を得られる。自由でいればいるほど危険に身を晒すことになる。
今回の私の悩み、『結婚したいけどしたくない』の落としどころとしては、“自分達に合ったカタチの家庭を築く”といったあたりでしょうか。こう書いてしまうとすごく当たり前のことですね。
もっと深掘りして言うと、結婚して安心感は得るけれど、縛りという代償は払わないというか。
ここ、大事な気付きポイントなのですが、たとえ結婚していなくても、好きあっている相手が窮地に立たされたらどうせ助けてしまうのだから、リスクに関しては結婚してもしなくても一緒かな、という気がしてきたのです。
結婚という契機を経るが、それでも何も変わらない、という選択肢があってもいいのではないかと。
新たに彼氏との間に子供を作らない(私が経済的に彼に頼る期間を作らない)のであれば、私は今まで通り、自分と子供の生活費だけを稼ぎ、彼は彼自身の食い扶持を確保して生きていけばいいだけの話です。
借金作って逃げられたら、それは私の見る目がなかったというだけの話ですね。
“結婚”という言葉が持つ役割
結婚、というと、「おめでとう!」「幸せ!」みたいなイメージと、その裏にある束縛、生活感といった、2種類のイメージがあると思う。
仮に前者のハッピームード全開で結婚したとしても、夫婦の間で結婚後のイメージに差があると、またたく間に現実的な、裏のイメージに転がり落ちていってしまうのだと思う。それはやっぱり、夫婦というのは一蓮托生であり、法律でも結婚という制度に対してそう定めているからなのだろう。
なんでもそうだが、制度化されているものは縛りになる。
周りのみんなに分かりやすい証明を得て、かつ共通のルールで守られるためには、自分にも皆が果たしているルールを課さなければならない。
それが嫌ならば、夫婦でも家族でも勝手に自称で名乗ればいいのだ。
もしくはそんな肩書などにこだわらず、ただただずっと愛し続ければいいのだ。
結婚は約束事だ。約束事は縛りだ。そして、縛ることで人は安心する。
歌の歌詞なんかでは、約束なんていらない、とカッコいいことを言うが、約束のない世界ではびこるのはうそつきと無法者だ。私は性悪説を唱えるほど悲観的ではないが、性善説を信じるほどお人好しでもない。
入れ物なしに愛のカタチを保てない自分の狭量さに嫌気が差すが、結局、私はどこかで安心が欲しいのだろう。
結婚という約束事がなければ、自分の気持ちの置き場がなくて、安心できないのだろう。
……またまた書いているうちに気付いたが、結婚を縛りや強迫観念として捉えるのではなく、入れ物として捉えるといいのかもしれない。愛や思いはカタチのないもやのようなものだから、それが霧散してしまわないように、分かりやすく入れておける入れ物。
生存のため、お互いの行動を規制し合うルールとしての結婚(※子供を作るならこれも必要ではある)ではなくて、愛の置き場としての結婚だなんて、とてもステキではないですか。
今回はちょっと脳みそお花畑な結論に達した訳ですが、結婚したって究極的に合わなくなったら離婚するのだから、ある程度先の展開が見通せて覚悟ができているのなら、そんなに深く考えなくてもいいんじゃないだろうか。
でも実際に行動に移して結婚してしまう前に、もう一度時間をおいて、ちゃんと熟考したいと思う。ブログ一回分の思案を通して結婚を決めてしまうことこそ軽率と言わざるを得ない気がする。