【ギフテッドな日々】障害と天才の挟間より速報

動作性IQ141ギフテッド。そんな人の視点から見た世界をつらつらとつづっていきます。

ブログが書けない症候群

書きたいことがない

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 物を書く、ということは自分の中に伝えたい何かがある、表現したい何かがある、ということなんだと思う。


 自分の事を知ってほしい、分かってほしい。あるいは書くことによって自分の頭の中にあるものを整理したい。
 自分という存在の立ち位置を確かめるために、人は物を書くのだと思う。


 ここ最近、ブログを書いていなかったのは、私の中の混沌がすっきりと整理されてしまったからなのかもしれない。


 もはや外に向かって、吐き出したいことがないのだ。


 自分は自分として生きていくだけだし、他人は他人として生きていくだけだ。事故や虐待などの悲しい出来事を目にすればもちろん感情は動くが、罰してやろう、正してやろう、などという気持ちは起きない。だから持論を述べる気にもならない。ただ悲しいだけだ。

 うつで仕事を辞めたい、と思ったり、息子の自閉症スペクトラムの対応方法を模索したり、ギフテッドはどう生きていくのが幸せなのかを考えたり。そういった自分自身の雑多な内面がすべて解消された結果、敢えて文字に起こしてまで表現したいものがなくなってしまったのだと思う。特に、ギフテッドという自分自身の性質とこれまでの生き方、そしてこれからの生き方について整理がついたのは大きかった。言い換えれば、自分を外に向けて表現したり、内に向けて解釈したりしなくても、自分という存在の立ち位置を確保できるようになったのかもしれない。

生きるとは

 大好きな息子が元気に育っていて、大好きな彼氏さんが生きていてくれて、恵まれた環境で働かせてもらって生き延びるための糧を得られる。もうこれだけで充分過ぎるほど幸せなのだ。

 書くために書くことを探す、というのはナンセンスな気もするが、例えば「こうすると幸せになるよ!」と周りにアピールすればいいのかというとそれはちょっと違う気がする。私と他人の生きる道もその途上の困難も全く違ったものだし、ましてや幸せなど方程式で掴めるものではないからだ。

 他人が他人の生き様に対して教授できることなんてなくて、できるのは、“あなたはあなた、私は私”とお互いの立ち位置を確認し合うことだけだ。その結果、共感や喜びを、時に怒りや悲しみを感じながら、他人が他人であることを侵害せずに生きていくだけ。ただし他人に対して無関心である、というのではなく、生きたり、生き延びたりする上で、他人と協力や対立をするのもまた人生の醍醐味だと思う。

あなたは今、世界のどこに立っていますか?

 従って、私はもうただ延々と、日々の幸せや出来事を書いていくくらいしか出来ないのかもしれない。
 これまでのように敢えて難しいことを考えなければならないこともないし、考えるのは疲れるのだ。私よりも一歩先行く天才気質の彼氏さんが「別にそこまで考える必要もないし、考えるの苦手」と言っていたのは多分、こういう感覚から言っていたのだと思う。ほんの数か月前まではいまいち理解できなかった感覚だ。むしろなんで先のことや自分のことを考えずに、しかも周りから慕われながら生きていけるのか不思議だった。2年半ほどお付き合いして、今やっと少し理解できたような気がする。

 全てのものは、比較対象がなければ存在を認識することはできない。

 他人が自分を映す鏡だと言われるのは、つまりそういうことなんだと思う。人は他人を通して自分を知り、自分の立ち位置から世界を見る。

 私に発信できるのは、今の自分の立ち位置から見える世界についてだけだ。あなたの立ち位置から見える世界は今、どう映っているのだろうか。いつでもだれでも、「私が見ている世界はこうだよ!」という発信ができて、だれもがそれを受信することができる。だからブログは面白く、辞めたくないと思うのかもしれない。