【ギフテッドな日々】障害と天才の挟間より速報

動作性IQ141ギフテッド。そんな人の視点から見た世界をつらつらとつづっていきます。

盲目の大衆正義が暴力を助長するかもしれない話

 本日は珍しく、朝ちょっと目に付いたニュース記事から。

newspass.jp

 この話。

 要約すると、1等陸尉が若い男性隊員3人に対して平手打ち(暴行)を食らわせた。その3人には、訓練に参加していた別の女性隊員の容姿を誹謗する言動があった。そのため1等陸尉は、自らの処分を覚悟の上で平手打ちを食らわせ、その後、自らの暴行行為を上司に報告した、とのことだ。


 今回、私が注目したいのはこの記事そのものではない。
 もしかしたらリンクからは見られないかもしれないが、この記事へのコメント欄である。

 自らの処分も顧みず、自分が正しいと思うことを通した1等陸尉を賞賛するのは分かる。

 けれども、「こういうのは暴力とは言わない」「暴力と体罰は違う」「平手一発くらい当然」みたいな意見には非常に違和感を覚える。


 件の1等陸尉はおそらく、自分が本当に正しく大切だと思うことをなんとしてでも3人に伝えたかった。その方法が、社会的倫理に反していると自分で分かっている暴力しか思い付かなかったから、それを実行して自ら報告した。その姿勢自体は生きざまとして筋が通っている。

 でも称賛されるべきは一等陸尉の“生き方の姿勢”そのものであって、“暴力で正義を押し付ける”行為ではないと思うのだ。

 そのあたりを混同して、手放しで称賛してしまっている(もちろんそういうコメントばかりではないが)コメント欄のリテラシーの低さには若干、危機感すら覚える。


「言って分からないなら叩いて分からせて何が悪い?」という意見がある。

「言うことを聞かせる」というのと「理解させる」というのは別物だ。
 叩くことで、叩かれた側は問題の“意味”を理解することができるだろうか? 言って理解できない者が、叩かれたからといって「自分が間違っていたんだ!」……なんて、内省して答えを導き出すだろうか?

 何が正しくて何が間違っているのか、という判断基準を養わないまま、単純なイエス、ノーを叩き込むことは、本人の思考力にふたをするようなものだ。仮に表面上、“女性隊員の容姿を誹謗しない”ということが達成されたとして、指導された側の腹の底が変わっていなければ人格形成に寄与したとは言い難いのではないだろうか。

暴力は正義の必要条件になり得るか

 この記事で一番問題なのは間違いなく女性隊員の容姿を誹謗した3人だが、平手打ちという行為を選んだのは1等陸尉自身だ。

 今回、1等陸尉が平手打ちという手段に及ばなければならなかった原因のみに絞って邪推してみると、

 ①相手に理解できるよう、言葉で伝える能力が欠けていた
 ②間違ったことを正さなければならない、という自身の感情の抑えが利かなかった
 ③言葉で伝えきるだけの時間的余裕がなかった

 あたりになるのではないかと思う。

 誤解のないように書かせていただくと、私は1等陸尉の人間性を批判したいのではない。むしろコメント欄の人達同様、人間的に立派な人物であるのではないかと思っている。1等陸尉は暴力反対の社会の風潮に反しようとも、己が正しいと思う指導を貫こうとした。しかし、それでも、だ。

 正しい指導を貫きたかった=暴力に訴えるしか手段がない、という方程式は成り立たない、ということを言いたいのである。

それが教育か暴力かを議論するのではなく、“教育か見放すか”を選んだ方が建設的

 次に、処分を受けるのは問題行動のあった3人の方だろう、という意見について。

 これは確かにその通りだ。本当に、どんな言葉を尽くしても自分達のしたことが分からないようならば、自衛官の資格なしということで懲戒免職でいいのではないかと思う。

 しかしミスや失態を犯さない人間などいない。全ての分野で大衆に受け入れられる価値観を持っている人間もいない。一度でも大きな失態をしたらクビ、なんてことをしていたら、この世に働く人はいなくなってしまう。

 大人といっても20代。一生を掛けて人間性を養っていくことを考えれば、まだまだひよっこの部類である。この時点において、全てに置いて完璧な素養を備えていろ、というのは無理な話だ。もちろん、反省はしてもらわなければならないし、そのためには自分達がしたことを理解してもらわなければならない。だからこそ、人生の教育期間という意味で、懲戒免職には執行猶予を持たせてもいいのではないかと思う。

 そもそもが私の「こうならどうさ?」という勝手な妄想なので、実際には懲戒免職もなにもないのだが。一度雇ったら簡単にはクビを切れない雇用システムは諸刃の剣なのかもしれない。

正義は押しつけた瞬間に、暴力に変わる

 という訳で色々な角度からこの記事の問題を掘り下げてみたけれども、やっぱり本題は、“人間的に優れた1等陸尉への肯定感が、そのまま暴力行為への肯定感につながってしまっている”ということ。

 自分(大衆・大多数)が正しいと感じる、いわゆる“正義”ならば暴力ででも押しつけていい。むしろそうするべきだ。と、多くのコメント欄は言っているのだ。

 完全に感情本位の、思考停止した大衆心理だと思ってしまうのは私だけだろうか。

 今回の件に限らず、感情的な選択や発言に覆われて、全くそんなつもりがないのに関連性のないことを同一視してしまう例はたくさんある。そして本質を見落としたままであっても、日本では多数決で決まってしまう。恐ろしいことだ。


 例え大多数の人が正義と認める事柄であっても、理解と了承を得ずに他人に押しつけた瞬間、正義は暴力に変わる。


 理解のためには教育が必要だが、教育が本当に本当に、どうしても相手に届かなかった時、最後の手段として現れるのは暴力ではなく見放すことだ。その結果、見放された相手が社会に反する行動を見咎められてパトカーに乗せられたり、職を失ったりしても、その時は当人の自己責任だと思うのである。


 私達は人間である。分かり合いたかったら、お互いに理解し合えるまで根気よく付き合うしかない。伝わらなかったら、話を切り出す角度を変えたり、相手にとって理解しやすい言い回しを考えたり、言語を学び直すしかない。それでもダメなら諦めるしかない。自分と他人。教育と暴力。どこまで頑張り、どこで諦めるのか。正確に要素を捉え、判断を下していくしかないのだ。

 件の1等陸尉は他人も自分も諦められず、自らの社会的経歴を犠牲にした。不器用ながら、愛に溢れた人だったのだと私は妄想で勝手に思う。