破壊と再生の物語
※これまでのあらすじ
これまでずっと世間や周囲との噛み合わなさを感じて生きていた私は、全てを受け入れてくれる彼氏さんと出会うことでようやく心の平穏を手に入れた。しかし安定的に続くと思われた平穏は、生活の糧を失った彼氏さんの引っ越しによって脆くも崩れ去ることになってしまうのであった。
という訳で、彼氏さんは県外で仕事を探すため、基本的にもうここには帰ってこない。電子を失って安定性が崩れた原子よろしく、一度は情緒不安定に陥った私ですが、すぐに別の電子を取り込み、安定性を保つことに成功しました。(←放送授業にかぶれた例え)
といっても、さっそく別の彼氏を作った訳ではありません。念の為。
私を構成するとても大きな要因を失った結果、私はまた考えることを始めざるを得なくなった。現状を整理し、安定的に続く未来以外の選択肢をまた選び直さなければいけなくなった。それ自体は別にどっちでもいいのだ。(彼氏さんとの離別がなく)安定して幸せなら変化がなくてもそれでよかったし、(彼氏さんとの離別の末の)新たな活動が幸せに向かうならそれでもいい。問題は私という原子そのものが安定性を保っていられるかどうかだ。
彼氏さんからの告白を受け、情緒不安定に陥った直後の思考状態は、それはひどいものだった。
現在の環境では生きていけないから引っ越す、と言われているのに、もう私に対して愛情がなくなったのか、だから離れられるのか、と自分のことばかりを考えているようなありさまだった。
少し落ち着いて考え直してみたところ、彼氏さんの優先順位を考えれば引っ越しは当たり前の選択だった。人間、何をするにもとりあえずは生き延びていなくてはならない。その大前提が崩れようとしている時に、その大前提しか目に入らなくなってしまうのは当然だ。そもそも相手の気持ちがどうだとか、そんなことを考えること自体が無駄なのだ。だって相手の気持ちは相手だけのものだから。私にできるのは、私自身の気持ちに対してどう行動するかだけだ。
私はやっぱり彼氏さんが好きだ。彼氏さんが私を愛してくれるから、とかではなく、単純に彼という存在そのものが好きだ。
彼氏さんがもうここに戻ってこれないというのならば、私がついていけばいい。状況的に考えて今すぐには無理だし、もしかしたら何年……いや、なんだかんだと結局、離れ離れのまま終わってしまうかもしれない。
だが、人間、その気になればいつでも飛んでいけるのだ。そう思うだけで大分気持ちは軽くなる。
もちろん、私が飛んでいくことに対して、彼氏さんが嫌がるならばその時は仕方がない。すっぱり諦めるしかない。だがそれは今、私のあずかり知るところでもないのだ。
破壊と再生と、新たな調和と
調和の取れたところに創造は生まれない。
原子の例え同様、全ての事象は不安定から安定の状態に向かって動くのが自然だ。いつまでも解消されない不調和状態は、自分自身の何が不安定でどんな状態が安定に当たるのか、その見極めが間違っているから起こる。需要と供給条件の噛み合っていない原子(自分と他人)同士が結合することもできない。その本質を見逃してしまうと、いつまでたっても不安定から脱することができないのだ。
一度破壊された調和を再生しようとする時、エネルギーが生まれる。
新たな電子のやり取り、化学反応が生まれる。
調和の取れた状態は平穏で幸せだが、破壊と再生の際に伴う化学反応もとても楽しいものだ。彼氏さんと共有していた電子が失われたことで、私は自分という原子の本質を見出すことができたし、不安定になった部分を補完するためのエネルギーを生み出すことができた。そのエネルギーは新たな電子を(私の場合は勉学を)取り込みながら、新たな調和の未来に向かう。
学ぶこと、世の理(ことわり)を知ることの最大のメリットは、自分自身を含めた全てを理の中に置いて、自然な調和に導けることだ。
少なくとも、学び始めの水辺でぱちゃぱちゃとはしゃいでいる“水を得た魚”である私はそう思うのだ。