【ギフテッドな日々】障害と天才の挟間より速報

動作性IQ141ギフテッド。そんな人の視点から見た世界をつらつらとつづっていきます。

『最高の人生を送るための2つの比率』と、社会性という名のパッケージ売りについて

 ついに『禁断の趣味』に手を出してしまった。

 2~4年スパンで転職を繰り返してきたのは、昔から、何かに没頭してしまうと他のことが手につかなくなってしまうからだ。生き延びるために仕事をしている時間がもったいなくて、苦痛で仕方がなくなってしまう。だから処世術として、その時々で、やりたいこと、興味のあることを仕事にしてきた。

 私にとっての『禁断の趣味』とはつまり、お金にならない興味の事だ。
 きっとみんな、仕事は仕事、遊びは遊びで切り替えてうまくやっているのだと思う。私にはそれができない。ずっとイライラもやもやしているか、心を無にしてやり過ごしているかのどちらかだ。もしかしたらそういう人も多いのかもしれないけれど、私はちょっと耐えられない。耐えられない、というよりはやっぱり、人生の時間がもったいない、と感じてしまう。

 最近特に感じるのだが、歳を重ねるごとに価値観が確立され、合理的になっていっている気がする。

 自分の価値観を基準として合理的になればなるほど、周りからは変人として映るのかもしれない。自分の価値観に忠実に生きるということは、しばしば社会的な価値観とかけ離れていくことになる。自分に正直に生きるほど、自分に掛かる責任は大きく重くなっていく。その責任を死ぬまでしっかり負いきれることが、私にとっての“生きる強さ”なのだと思う。

『生きる』と『生き延びやすさ』

 発達障害であれ、ギフテッドであれ、そういうものに該当しない性格的特徴であれ、それはその人が持って生まれた“その人自身”だと思う。
 そして社会とは、義務と引き換えに権利を享受できる共同体で、『生き延びやすさ』を提示してくれるものなのだと思う。

『生きる』ことは“その人自身”でいることだ。社会の『生き延びやすさ』の中で『生き』ていければ、それは何よりだと思う。


 でもそれが両立できない時。許容範囲に収まらなくなった時。人はどちらかを選ばなければならない。

『生きる』も『生き延びやすさ』も0か1かではなく、0か100かくらいの幅があって、人によってその許容範囲は違う。例えば『生きる』が20でも『生き延びやすさ』が90くらいないと安心できない人もいるだろうし、『生き延びやすさ』が10でも『生きる』が80以上ないとダメ、という人もいるだろう。


 私が一番ダメだと思うのは、社会の『生き延びやすさ』に殺される、というパターンだ。

 社会が持つ『生き延びやすさ』の裏には、義務を果たさなければならない、という強制力がある。権利を受け取るためには義務を果たさなければならない、という当然の理屈だ。しかし権利と義務の関係性ならば、義務を果たさない代わりに権利も放棄する、という自由もあっていいのではないだろうか?

 みんながそうしているから。ここにいれば、こうしていれば安泰だから。

 個人にとっての社会とは、『生き延びやすさ』のパッケージ売りのようなものだ。

 “~やすさ”とは、色々と面倒なことを考えなくてもいい、ということでもあり、思考を停止させる側面もある。

『生き延びやすさ』のために鬱になるまで仕事を頑張ったり、ぎりぎりの生活費を更に削って税金を払い続けるのは本末転倒だと思うのだ。


『生き延びやすさ』はあくまで“~やすさ”であって、“生き延びる”ことそのものではない。

 簡単な“~やすさ”のために殺されるくらいなら、社会性など放棄してしまえばいいのだ。『生き延び“やすさ“』と引き換えに“生き延びる”。あるいは『生きる』を取り戻して、自分の頭と行動力で生き延びればいいのだ。その結果、生き延びることの困難を理由に死んでしまったら、それはそれで仕方ないではないか。能力や適応力のないものは淘汰される。元々、生き物とはそういうものだったはずなのだ。

『生きる』『生き延びやすさ』の比率・具体例

 話を私自身のことに戻そう。

 私の場合は知識欲というか探求欲というか、そういうものが満たされないと生きていけない。これは変えられない部分だ。『生きる』レベルに換算すると95くらい。仕事を通じて、寝る間も惜しんでこれを満たし続けていたら鬱になった。
 で、鬱になってしまったので療養後はあまり無理をしないでいた。それでもフラストレーションを溜めずにすんでいたのは、彼氏さんという例外的な存在がいたからだ。彼が傍にいただけで『生きる』レベル80くらいまで満たしてくれていたんじゃないだろうか。だから仕事や家事が終わった後の短い時間しか欲求を満たす時間がなくても大丈夫だったのだと思う。

 しかしここにきて彼氏さんと離れ離れになるという事態が発生。私の『生きる』レベルは一気に欲求不満レベルへと下降した。

『生きる』レベルが下がると、人は無意識に、なんとか最適値に戻そうとするようだ。私は今まで彼氏さんが担ってくれていた『生きる』レベルを何とか別のもので満たそうとしていた。無意識に、仕事、子育て、あらゆる面が見直される。

 大学の勉強にもっと時間を割きたい。そう思ったら、現職における業務内容の時間効率の悪さ、営業という成果(ひいては時間管理)の見通しの立たなさ、思考力を疲労させるマルチタスクな仕事内容などがどうしても目に付いてしまう。

 現在の仕事は私にとって、『生き延びやすさ』85、『生きる』10、くらいだ。以前は『生きる』も65くらいあったのだが、鬱になる前にやりたいことはやり尽くしてしまった感があり、今は10程度の数字になっている。

 感情に左右されなければ、『生き延びやすさ』に85もいらないのだ。退職してしまえば『生き延びやすさ』は一時的に10以下になるだろうが、その後で派遣なりなんなりで食いつなぐくらいはできよう。一時的に貯蓄などは出来なくなり、節制も免れないだろうが、『生き延びやすさ』35もあれば御の字だ。しばらく『生きる』95以上を維持し、どうにもこれから先、生き延びるのが困難になるであろうとなった時に、また比率を考え直せばいい。

まとめ

 今回は人生を単純に、『生きる』『生き延びやすさ』の二つに分けてしまったけれども、この二つの中にはものすごくたくさんの要素が詰まっている。
 今よりもよりよい人生にするためには、ものすごくたくさんの要素を天秤に乗せて考えなければならない。

 単純に現状を変えて後悔しないか、みたいなことから始まり、仕事とプライベート、どれくらいの比率で『生きる』を満たすのか。完全に生き延びるためだけに仕事をするのであれば、その仕事は体力・思考力の面でもプライベートでの『生きる』を邪魔しないか。最悪の事態に陥った時に使える貯蓄はあるか。あらゆるものを比較検討して、自分で納得して、初めて後悔しない選択ができるのだと思う。

『生きる』『生き延びやすさ』の比率を変えようとする時、実際に変えなければいけない要素は『自分』と『環境』だ。

 そして『自分』にはどうしても変えられない、性質といった部分がある。ならばそこはそのままでいいから、他の変えられる部分や『環境』を変えることで自分に都合のよい人生にカスタマイズしていけばよいのだと思う。