【ギフテッドな日々】障害と天才の挟間より速報

動作性IQ141ギフテッド。そんな人の視点から見た世界をつらつらとつづっていきます。

愛犬の死と本質主義と迷子が進む道

愛犬の死


一昨日、我が家の愛犬が死んだ。


正確には私の母親が飼っていた犬なんだけれども、息子が生まれる少し前、里帰り出産に備えていた時にうちに来た犬だから、息子とは兄弟みたいなものだった。

室内犬でね。ポメラニアンなんだけど。
キャンキャン吠えてうるさいし、あっちこっちでおしっこしちゃったりするんだけど、本当に愛嬌があって可愛い奴だった。


今朝までは本当にいつも通りでね。息子の背中に「おんぶー」とか言ってやらせて、イチャついていたんですよ。

でもね、帰ってきたら亡くなってた。

家を出る前に私の母があげたおやつをのどに詰まらせてしまったらしく、現場にはとても苦しんだ跡が残されていた。


家を出る前のおやつは日課みたいなもので、私も母も、毎回家を空ける前にはそうしていた。母を責める事はできないし、何よりおやつをあげて出ていった母自身が一番苦しいと思う。

あんな人懐っこいワンワンがね、誰もいない家で、誰も助けてくれない中、苦しんで亡くなっていったと思うと本当に胸が詰まる。


交通事故や虐待死の事件を思い出した。


当たり前に続くと思っていた命が、失われる時はあまりにもあっけなさ過ぎて。


ある日突然、一つの生命が消えてしまって、その先はずっと消えたまま戻らない。

人生や、記憶といったものにある地点からの断絶を感じる。そしてそれは欠けたまま、今度は存在しない事が当たり前の世界として続いていく。

残された私達は、新しい世界にすぐには適応出来なくて、いてくれて当たり前だった大切な生き物の、最期の瞬間の苦しみを想像して打ちひしがれる。


器用という言葉の意味

完全に予想外にそんな辛い出来事があったものだから、私のキャパシティは一気に容量を超えてしまった。

とても辛い事があった時、人はふさぎ込んでしまう。
人によっては、理由付けや逃避行動などで自我を保とうとする。


私は、ふさぎ込む事も必要だと思う。


辛い事から目を背け、悲しい気持ちを受け止めず、なんとかやり過ごそうとすると、確かに表面上は気丈な人で、表面上はうまく回るだろう。

だけれど人として、それはどうなのかな。社会人である前に、感情を持って生まれた人として。


私は人生の四半期くらいまで自分は器用な方だと思ってきたが、他人に言わせると相当不器用な方だそうだ。

そうかもしれない。

感情を切り捨てて理を優先し、社会人としてうまく立ち回る事が器用だというのならば、そうかもしれない。
自分の思いや感情を優先して、泣いたり笑ったりしながらぶつかって傷ついてを繰り返すのが不器用ならば、そうだと思う。


でもその定義だとさ、器用って褒め言葉じゃないよね。少なくとも私の中では。


持って生まれた自分自身よりも、外部の情報、周囲の状況を優先する、ていのいい全体社会の埋没者だよね。


持って生まれた自分自身よりも、外部の情報を信じるようになってしまったら、自分って何だろね、って話になっちゃう。


人生の先輩やもっと昔の先達者たちが残してくれた知恵があるんだから、それを使わないのはバカ。で、その知恵をうまく使い回せるのが器用、っていうのはさ。確かにそうかもしれないけれど。確かに前者は効率悪いかもしれないけれど。

知識の上澄みだけをすくってやりくりするのを器用、っていうのはさ。中身は空っぽのバカ、って言われているのと同じだと思うんだよ。


本質に向き合う事

上記のような言葉の定義で行くならば、不器用な私はただただ自分の悲しみに向き合うしかない。

「仕方なかった……」とか「いつまでも落ち込んでいても仕方ない」とか、時間をかけず、切り替える方法は、あると思う。

でもそうやって、自分の悲しみを見ないふりして、きちんと向き合わないでいったら、“悲しみというものの中身を知らないバカ”になってしまいはしないだろうか。


外から知った情報や、辞書的な意味だけを参照して、効率的に判断する事が“強い”という評価になるのはどうなんだろうね。

例えばね、“悲しい”って事は、本当にこんなにも辛いんだ、という実感。“悲しい”という言葉の本質は、体感しなければ分からないと思うんだよね。

きちんと体感しきった上で、冷静な判断を下すのはいいと思うんだよ。でも言葉や物事の表面だけを見て、「検索すれば答えは出てくるのに、わざわざ体感するなんてムダ」と言わんばかりの、スピードと効率重視の空っぽを、現代的・有能と評するのは絶対に違うと思う。(いや、現代的、というのはその通りか)


ただね、私だってひたすら悲しい悲しい言って、いつまでも落ち込み倒すのがいい、って言っている訳じゃないんだよ。


しんどいけれども、悲しい事・辛い事に正面から向き合わないと、そもそも本当の意味でそれを乗り越える事はできない、と思っているんだよ。


正面から向き合ったら、辛すぎて立ち直れないかもしれない。
やっぱり事実を直視できなくて、思考停止に陥ってしまうかもしれない。


それでもね、まずは向き合って自分の頭で考えないと、自分自身が育たないんだよ。


自分を信じる力

冒頭の愛犬の死から来て、だいぶ抽象的な話になってしまったけれども、これらはあらゆる出来事に対して私が思っている事であってさ。


知識だけで武装した空っぽ人間って、やっぱり人として、魅力的じゃないんだよね。


つまり何が言いたいかっていうと、うんと傷つきながらも、自分や自分の感性を大事にして生きてる人は魅力的だって事さ。


傷つく事が弱くて、カッコ悪くて、恥ずかしいと思うから人には見せない。そんなの自分だと認めたくない、みたいな人達は、そのダサいと思っている部分を覆い隠すために上っ張りだけが肥大化していく。

そうしないと生きていけない世の中だから?

だったら尚更、自分の弱い部分と向き合って、根っこから成長していった方がいいんでないかね。
本当の自分をさらけ出せないまま、ただ生き延びるためだけにそのハリボテを保ち続ける事の方が、辛くて無意味だと思うのだけれど。


比較的最近、読者になりました方の、こちらの記事にすごい良い事書いてあった。

www.jiritsusupport.com


自分を信じる力、か……。


思えばこの30年間というもの、本当にそれだけで生きてきたんだよね。

進学校から自衛隊に行った初めての女子になったのもそう。自衛隊やめた後、一人で居酒屋開いたのもそう。昔はそれだけの瞬発力があった。生きる意味が、周りと違う自分をありのまま承認してもらう事だったから。


どうして今、今更になって、私は生き方に迷走しているんだろう?


それは多分、承認をもらえてしまったから……かな?


もう必死こいてまで、自分の存在をアピールする必要がなくなってしまったから。だから満たされて、もう突っ走らなくていいんだ、って思っちゃったんだね。


ここで気付いた。迷走の理由。


突っ走らなくてもいい、って、イコール普通になる、って事じゃないよね。

何を勘違いしていたのか、長年欲していた物が手に入って、突っ走る必要がなくなったからと言って、私が普通になる訳ではないよね。


承認を得て心が落ち着いても、私は変わらず2E(2重例外)のまま。

最初から、普通のやり方で、普通に溶け込めるはずがなかったんや……。


答え合わせ的あらすじ

書いている人の中ではつながっているけれど、これを読んでいる人は支離滅裂感ハンパないと思うので、ちょっと解説。


ワンちゃんが亡くなる前から、実は私、仕事がちょっとしんどかった。


こうすればいい、って自分でも分かっているのに、自分の既存概念をどうしても壊したくなくて、仕事としては間違った選択をし続けていた。

仕事として正解の選択は、本当に本当にしんどくて、そうするくらいなら仕事辞めた方がマシ、ってくらい。今思えば、そんな自分の中のこだわりを守るために、転職しまくって好きな事してたんだと思う。


でもこの曲げられないこだわりってさ、発達障害の特徴の一つだよね。昨日気付いたんだけど。


ともあれ、今の仕事は辞めたくないけどこだわりは捨てたくない、っていうジレンマの中でずーっと悶々としていたのね。そこへ愛犬の死というショック。辛い事に対するストレスキャパオーバー不可避。


どうするかっていうと、向き合うしかなかったんですよ。


根本的にストレスの容量を減らすために。

見て見ぬふりして後悔したり、辛さを内側に閉じ込めておかないために。

要素分解して、考察して、ちゃんとした答えを出して自信を持って前に進むために。


そのための、このエントリーさ。着地するまで着地点の見えないエントリーさ!


ワンちゃんの事は論理で解決できる問題ではなかったので、必然的に、仕事の方の解決に走ったんだな。


迷子が進む道

興味への過集中、意味を感じられない物事への集中力欠如、物をすぐなくす(笑)とかに加えて、“強いこだわり”、もかー……

意志が強いとか自分持ってるとか、これまではいいように脳内変換してたから気付かなかったけど、私の性格がもろ発達障害テンプレ、ってのは流石にショックというか、衝撃的でしたな。

でもここまで気付かずに生きてこられたのは2E故、という感じがしますね。


“ありのままを認めてもらう”という、これまでの人生で最大の潜在目標を達成した事で、目標を失った私。
目標がないままの生活テーマは、どういう訳か、“普通に溶け込む事”になっていた。


いや無理や。

目標があろうがなかろうが、私は変わらず2Eなんや。なんで普通に溶け込もうと思った?

今までほど頑張る必要はないけど、結局、2Eとして生きていくしかないやろがい。


自分を信じる力、かー……


どうせ偏っているのだから、普通の感覚を理解……する事はできても、内面化する事はできないのだから、少し前みたいにさぁ、自分だけを信じて生きればいいのかな?

この短い間にちょっとだけ集めてみた、でもやっぱりしっくり来なかった偏見のコレクションをさぁ。もっかい全部、捨ててしまおうかな?


そうしようと思う。多分、そうする事でしか、私は幸せになれない気がする。

少数派のジレンマ

さて、昨日は機能不全家族ではなく子どもの方が機能不全という、逆説的かつ、言葉尻だけ捕まえたらひどい批判が巻き起こりそうなタイトルを書きました。

mai-ko.hatenablog.com

もちろん、私は機能不全子どもであった自分が悪いだなんて思っていないです。

でも、親や家族が悪かった、とも思っていないです。むしろ、当時の知識で、親自身の価値観の中で、全力を尽くしてくれたと思っている。


前回の記事で何が言いたかったかって、結局、子育てに常識を持ち込むな、って事ですよ。


親は自分が培ってきた価値観、常識を元に子育てをする。

でもね、常識とは十八歳までに身につけた偏見のコレクションだって、アインシュタインも言ってる。

世界は日々、進化していっているんですよ。変化、といってもいいですよね。
そんな中で、二十年も三十年も前に培った自分の常識が役に立つわけがない。


ギフテッド児や発達障害児は、そもそも子どもの性質が親自身と違う。世間的な認知も自分らの時代とは違う。

でも親世代が生きてきた時代とは周りを取り巻く環境が違う、っていう面で言えば、ギフテッド児や発達障害児に限らず、健常児を育てる親も一緒かと。


今、この瞬間の世界に触れて、臨床的な知見をもって一つずつ判断していくしかないと思うんだけどなー。


でも世の中には情報が溢れすぎているし、一つ一つ考えて対応するのはすごく手間だし大変だし、だから人はスキーマという認知の塊を作って省略する訳で。そのスキーマがレッテル張りとか常識とかにつながる訳で。常識が常識外のモノを無条件に阻害する訳で。


……本題に入る前に、別のジレンマが出てきちゃったな。

常識(だと自分が思っているモノ)があれば(考えなくてもいいという意味で)楽に生きられる。でも常識を疑わなければ真実を見失う。

よし、これを常識と真実のジレンマと名付けよう。

少数派のジレンマ


前置きめっちゃ長くなっちゃったんだけど、なんだっけ。


そうそう、少数派のジレンマね。

前記事で、家族ではなく子どもの方に問題があって、世間一般に合わせようと勝手にアダルトチルドレンチックになってしまう、というような話を書いたのだった。

ちょっと待って、これは別にギフテッドや発達障害児をディスっている訳ではないのです!

長い前置きで書いた『常識』という目線で見れば、そういう言い方になってしまうんだよ、って事を言いたいのです!


我々少数派は、自分達が少数派である事を自覚しています。
社会が非常に多くの人達で構成されている事も知っているし、多くの人達がより良く生きられるように形成されているものだという事も知っています。


だからこそ、声を上げる事に躊躇する。


何故って?


他の多くの人達は現在のシステムで生きているのに、私達のような少ない者のために、わざわざ全体社会様に目をかけていただくのは申し訳ない、という気持ちになってしまうのです。

……ごめん、言いすぎた。そんなこと思ってんの、私だけかもしんない。


と、ともかくですね、数の正義、っていうのは確実にあると思うんです。


政治だって、過半数とか議席の2/3とかで決めるでしょ?
言葉だって、多くの人が誤用を多用していたら、その誤用の意味が真実になっちゃうでしょ?
集団はその価値観から外れた個をいじめるでしょ?


3人のうち1人が反対していたら、その反対意見は受け入れられるかもしれない。
でも100人のうちの1人が反対していたら、その反対意見は押し潰されるでしょ?


そういう事ですよ。


正しいとされるのは常に多数派。

一般常識的に見て、家庭に落ち度がなかったとしたら、機能不全なのは子ども。

多数派で形成される社会に適応できないから、呼ばれ方は“障害”。


そういう事なんですよ。


社会が大多数の、多くの人達を生かしている事は事実。それが素晴らしいことであるのも事実です。

だから私のような少数の者が、自分達のためにしゃしゃり出て、それに水を差そうとするのはどうなのかな、と思ってしまう。
だって私達が黙ってさえいれば、多くの人達は煩わしい思いをする事なく、居心地がいいと思う枠の中で暮らしていけるんだもの。

私みたいな考えのマイノリティって、マイノリティなのかな(笑)
相変わらず諦観がひどい。




……でもちょっと待てよ?


政党同士で手を組めば多数派になるんでね?という政治家みたいな思考


確かに私みたいな2E(二重例外。高知能&発達障害の事)は少ないかもしれない。

でも純正ギフテッドや諸々の発達障害や性的マイノリティの方々とかHSP(←多分私これもあると思う)とか、方々で少数派と言われている人達を片っ端から束ねたら、一大政党になるんでね?

自分達だけでなくて『多様性を認める』っていう、時代にもひじょーにマッチした集団になるんでね?


え、ちょっとTwitterとかで募ってみようかな……


あ、でも募ったとして、意見をまとめられる気が全くしないw ちょっと保留でw




でもさ。

本当は結局、『みんな違ってみんないい』が浸透すれば全部解決するんだよね。

わざわざ一人ずつカテゴライズして、正体を明らかにして、自分に理解できるものにしないと受け入れられない人間って浅ましい……

なーんて思っちゃうけど、本来、人間も動物だから、本能的に自分と違うモノを忌避するのかなとも思う。異物を情報化することで、理性で受け入れられるようにしている。そう考えると、やっぱり人間の英知って素晴らしい。


それを思うと、『みんな違ってみんないい』が素で出来る人は(危機管理・生存欲求が低い、という意味で)、逆に動物的には異常なのか?


いや、私は情報化と理性での許しを越えたところにいる、“真の人間”だと思っているよ!

機能不全子ども、爆誕。

こんにちは。色々アレな記事タイトルの答え合わせは記事の中で。
元機能不全子ども、MAI-KOです。

なんとなく情報サイトの記事をつまみ読みしていたら、少し引っかかる記事がありました。

元記事↓

news.allabout.co.jp

allabout.co.jp

えーと、アダルトチルドレン機能不全家族についてですね。


ざっくりと要約しますと、上記事には、
『親の過干渉が子どもの人生にレールを敷いてしまい、子ども本人もそれが正しい事と思い込みつつも、言いようのない違和感とストレスを抱えながら成長してゆく。そしてそれを社会に出て、気付いて、修正していくのに多大な労力を必要とする』

下記事には、
機能不全家族の中で育った子どもが、その時に身につけた“役割”は大人になっても抜けない』


というような事が書いてあります。
私のざっくり要約では細かいニュアンスが掴みにくいと思うので、お時間に余裕のある方はぜひ元記事にも目を通していただきたい。


さて。本題ですが、私が育った家は機能不全家族……ではなかったと思うし、「大学を出て大企業に就職して~……!!」みたいな事を強要される過干渉でもなかったと思う。

なのになぜこの記事に惹かれたかというと、私自身がイレギュラーだったから、普通の親の普通の干渉が私にとっては過干渉だったのではないか?という疑惑が湧いてきたからである。


引用記事と違うのは、私は幼少期から、親の言う「ああしなさい、こうしなさい、○○しないとダメ」は、世間的・大衆的に見た場合の多数決、というだけであって、それが“正しい事”だとは微塵も思っていなかった、という点。


とはいえ、子どもである自分が思う“正しさ”なんて、大人である親の思う“正しさ”の前では無力なのだ。

勝てるわけがない。親に自らの生存を左右される子どもが、親の支配・干渉を拒否出来るわけがないのだよ。


子どもであった私は、自分の考えをうまく相手に伝えるすべを知らなかったし、言ったとしても「屁理屈」「そういうものだから」という内容のない言葉で片付けられたものだ。
子どもだからそこまで深い考えはないだろう、と思われていたのかもしれないし、そもそも親自身、子どもの問いに対するきちんとした答えを持っていなかったのかもしれない。今となってはどっちでもいい。ただ、意志の疎通もできず、自分にとって納得のいかないものを一方的に押しつけられる理不尽が続くこの状況は、少なくとも子ども本人にとっては機能不全家族と大差ないのではないだろうか。


そして機能不全家族は、将来のアダルトチルドレンを生む。

All Aboutさんの下記事より引用させていただくと、

本来、家庭のなかに基本的なルール、安らぎやコミュニケーション、許し合い、信頼できる絆があれば、家族は安心して成長することができます。しかし、それが欠落した家庭で育つと、子どもは不安や恐怖、疑問を抱え、親の顔色を見ながら自分の生き方を考えようとします。

とあります。

機能不全家族で育った子供は、家庭の不和をつなぐ“役割”を果たそうとするそうで、よく見られる6つの特徴が以下。

(1) ヒーロー(英雄)
頭のいい子、スポーツのできる子、歌やダンスの上手い子、模範的な行動をする子など、世間的に評価される行動をとる「できる子」のことです。できる子になると親が喜んでくれるので、より高い成果を求めて頑張ろうとします。


(2) スケープゴート(身代わり)
ヒーローの正反対の存在である、「ダメな子」。家族に疎まれるようなことをする子どもです。いたずら、いじめ、乱暴、赤点など怒られるような行動をとったり、よく病気をしたり、誰でもできるようなことをしくじったりして注目を集めます。


(3) ロスト・ワン(いない子)
家族の中でもまったく目立たない存在の子。家族が集まる場所でもいつも隅っこの方にいて、仲間に加わりません。どこかにいなくなっても、いないことすら気がつかれないような子です。


(4) プラケーター(慰め役)
泣いている母親を抱きしめ、「ボクがそばにいるから安心して」などと慰めてくれるような子です。家族のストレスを癒し、心の支えの役割を担っている子どもです。


(5)クラン(道化役)
冗談を言ったりおどけたりして気を引き、家族の関係を取り持とうとする子どもです。ちょっとした笑いをふりまけば家族に一瞬笑顔が訪れますが、本人は心から楽しんでいるわけではありません。


(6)イネイブラー(支え役)
幼い頃から親の手伝いをし、きょうだいの面倒を見たりするしっかり者の子です。大変な仕事も喜んで引き受け、大人のようにてきぱき仕事をこなします。


私は(1) ヒーロー(英雄)に近かったかな。

ただし家庭の不和をつなぐ必要はありませんでした。
だって私以外は不和じゃなかったんだもん。


前述した通り、私は親が教えようとした“正しさ”を内面化しませんでした。腹の底では常に、絶対に自分の方が正しいと思っていた。(これ、高IQの部分ね)

だから自分を認めさせようとして、『自分のやり方で何かを成す』事に固執していたんだと思う。(発達障害的な過集中の部分は、あったよね)


つまり、自分と家族の不和をなんとかしてつなぎとめようとした結果が、ヒーロー(英雄)である事、だったんでしょうね。


高IQ、発達障害、自分にとってだけの機能不全家族、それが絡み合った結果、常に不和の解消を求める異常に生き急ぐ人格を形成してしまったんだろうなぁ。

もうすでに、親の顔色など気にせずに自分の人生を歩んでいける年齢なのに、子どもの頃に担った役割を続けている大人は少なくありません。

という記述があったのだけれど、その例の中に、「もっと頑張らねば」とせかされるように生きる人、というのがあって、ホント私じゃん。と思いました。三つ子の魂百まで。


今はそういう自分の生き方の癖や原因を知った事。また、ほんの一部の人とでも“つながれた”事で、少しは心穏やかになれましたが、油断するとまだ生き急ぐ癖が出ちゃう。長い事、これで生きてきたんだから仕方ないね。


ただやっぱり、こうして“己を知る事”で大きく前進できるよね。


認知療法って、こういう事だと思うの。自らの正体を知るのは大事。


私と同じように、生きづらさを抱えながらそれを隠して生きている人がいたら、そういう人の力になりたいと私は思う。臨床心理士遠いけど、とりあえず大卒資格取るとこから始めるよ。

発達のでこぼこってこんな感じさ

はい。前回予告した通り、今回は、

『なんで知能検査項目の数値ではなく、各項目の開きが=発達障害になってしまうのか?』

について書いていきたいと思います。


これね、私も疑問だったんですよ。

WAISやWISCといった知能検査を受けると、大きく分けて4つの項目(群指数)でその人の能力の得意不得意を数値化してくれますけど、どうして『項目間に差がある』事が発達障害の条件というか、そういう生きづらさにつながってしまうのかと。


だって普通に考えれば、〇〇が苦手、で済む話じゃないですか。

例えば、作動記憶の項目だけが低ければ、「ああ、自分は色々な事を同時にこなすのが苦手だなー」くらいで済むと思うじゃないですか。

それがどうして、
集中できないとか落ち着きがないとか多弁とかコミュ障とか余計な問題まで引き起こす事になるのさ!?
と……

今日はこの疑問について、あくまで私の体感と、ここまでにひっかき集めた知識を元に推論を進めていきたいと思います。


話を簡単にするために、私自身の例から抜粋してきましょう。

前の記事でもちょろっと書きましたが、私のWAIS-Ⅲの結果の中で一番項目間に数値差があったのが、知覚統合と作動記憶。

知覚統合とはホントざっくり言えば、目から入る情報を把握する能力。作動記憶とは耳を通した情報を頭の中で整理する能力。各項目の数値は以下。

知覚統合→IQ135
作動記憶→IQ107

……ご覧の通り、私の場合、他の項目に比べて数値が低いだけで、一応、一般平均値くらいはあるのです。


でも不思議なことに、きっちり自閉症スペクトラムの特性が出るんですよ!Σ( ゚Д゚)(前回の記事参照)



これはね、あれですよ。一言で言えばですね、


自分が自分についていけてないんですよ(遠い目)


例えば、うーん、そうだな……
適切な例えになるかどうか分からないですけど、自分と世界をつないでいる連絡通路があるとして、IQの数値=情報や行動をやり取りする連絡通路の広さだと思ってください。

知覚統合が高い私の目からは、すごくたくさんの情報が入ってきて処理される。しかし、どうしても狭い方の通路を通さなければならない時もある。その通路の広さにあまり差がなければ問題ないのだけれど、普段、両開きの大扉を使っているものを、「どうしたってこの小窓を通さなきゃダメだろ!」って言われたら辛くない?

流通が盛んな大扉を尻目に、うんうん言いながら小窓を通そうとするの、馬鹿らしくない?


本人からしてみれば、理不尽なのよ。大扉を通せば事はさっさと済むのに、その小窓使うことになんか意味あんの?って思ってしまう。

興味のある事には夢中になって取り組むけど、苦手な事には全く集中できない、っていうのも、ここから来てますよね、多分。


でね、人間、できているところは当たり前に受け取られ、できないところは悪目立ちしちゃうもんなんですよ。


だから他人からは、出来ないところばかりに着目されて、変な人、ダメな人扱いされてしまう。でもうまく表現できないだけで、本人の中では色々分かっているんですよ。どうする事が社会的に正解なのか、とかね。でも外部と内部の情報の行き来に、大扉ではなく小窓の使用を余儀なくされた時、処理しきれずに混乱してしまう。

そしてあらかじめ大扉から得ていた知識で、小窓を通ってくる情報そのものはカンタンなものである事を知っているからこそ、どうしてできないのかが自分でも分からない。


独り言をぶつぶつ言っちゃうのとかも能力の項目差を補うためだと思っていて、自分の内部で行われている処理速度に、能力の低い項目がついていけてないから、確認のために口に出して、自分の耳に入れているんだと思うんですよね。

ほんの数秒前まで手にしていた物をどこに置いたのか分からなくなってしまうのも、小窓からの流通(短期記憶)が大扉からの流通に押し流されてしまうからだと思う。




もっと具体的に、どの項目とどの項目に差があるとこうなる、みたいに書ければいいんでしょうけど、今回はタイトルの通り、「発達のでこぼこって、こんな感じさっ!」って事で。

いかんせん、ソースが私(と息子)だけでデータ不足だし、推論に過ぎないし、あんまり嘘言ってもいけないし(笑)

各項目間に差がある事でどんな弊害が表れるのか、って事くらいは、もうちょっと勉強すれば必然的に辿り着けるんじゃないかな。4つの項目(群指数)間での差の影響は結論出てそうだけど、その下の下位検査項目の差を含めると、煩雑過ぎて本当に臨床で対応していくしかないのかもしれない。だから近年、自閉症とかアスペルガー症候群とか全部まとめて、『自閉症スペクトラム』になったんだと思っているよ。


最初から最後まで全部、個人の体感と推論なんだぜ!

発達障害の定義や理屈の正しさを証明するものではないので、その辺りはご了承くださいねー。

アイデンティティの形成に挑戦してみる

またまた微妙に前回の続き。

mai-ko.hatenablog.com

今回は、いい歳してアイデンティティの形成に失敗している理由を探ってみたよ。


あらすじ
子供の頃からかなり頭はよい方だった(小学校5~6年時、IQ140弱)
→だから変わった人扱いではあったものの、それなりにうまくやってた
→本心ではずっと周りと噛み合わない感はあったけれども、みんなそうなんだと思っていた(思うようにしていた)
→比較的最近、うつをきっかけに発達障害を疑って知能検査
→検査項目間の差が15以上もあれば発達障害のところ、項目間差、最大で28もある(作動記憶107、知覚統合135)
→医者「大丈夫です!天才です!発達障害?頭いいんだからなんとでもなるでしょ!大学教授なんて変人の巣窟で(以下略)」
  ↑Σ( ゚Д゚;)ココでしょ!ココ、ダメだろ!


いや、こうして記事書いてまとめてる時点で実際、何とかなるんだろうけれど、アンタ心療内科やろ!
人間、IQだけで生きてる訳じゃなくて、性格とか環境とかによっても違うねんぞ!

……あ、だから環境を変える方法を教えてくれたのか……だから今、大学に通ってるんじゃんね、私。暴言吐いてゴメンネ!お医者さん!_(:3 」∠)_


とまあ、まえがきはこれくらいにしておいて、本題行きましょう。

仮説:アイデンティティ形成のカギは、自分の本質を受け止めるところにある。

え?すごい当たり前の事を言っているって?

いやー、これがなかなか難しいんですよ。いや、本当に人間デキてるなー、って人はこれが出来ているんでしょうけど、やたらプライドが高かったり他人を批判するような人は真の意味でアイデンティティ形成できてないんじゃないかな。少なくとも、完成形ではない、って意味で。おおぅ、壮大なブーメランだ!Σ( ゚Д゚;;)ヒイ!


この仮説の何が難しいかって、自分のホント、ダメなとこをまるごと受け入れなきゃいけないんですよ。
自分のいいところをかいつまんで持ち上げるのは簡単ですよ。大事なのは、人様に言わせれば、「うわ、恥ずかしい奴www」みたいに思われるところも、自分だって認めなきゃいけないんですよ。

もっと言えば、仕事してる時や人様と交流をしている時に隠せているからいい、ってもんでもない。便宜上、隠すにしても、自分の本質は“それ”なんだって、心から納得してなきゃいけない。


それができないと、どうなるかって?


“外”の……いわゆる常識とか環境とか理想像に合わせて頑張ってしまう訳なんですねえええ。

そっちが正しい、自分は間違い、になってしまうんですねええ。あらやだ、昨日の記事の私まんまじゃない!


自分がそうやって頑張っていい人を演じているから、そういう役割を演じない、他人に対して攻撃的になってしまう。そしてそんな今の自分を形成しているものこそが、正しいアイデンティティだと信じて疑わない。うーん、現代社会の闇ですな。あ、この辺はホラ、何記事か前のディストピア形成論につながると思いません?ね?(同意を求める)

mai-ko.hatenablog.com

誤解のないように書いときますと、いつでもどこでも「ありのーままのー」が正解!って言っている訳ではないんですよ。

前提条件としてアイデンティティがきちんと形成されていれば、社会に出ても対人関係でも攻撃的になったり卑屈にならず、上手にふるまえるんじゃないか、と思うんです。


という訳で、今日はさらけ出しますよ。

今まで見て見ぬフリしてきたとこ。

私の、自閉症スペクトラムな部分。

常識とか環境とか理想像からみたらダメダメな私の本質!



システムの構築や解析は大好きだけど、本当はモノ、コトには全然全く興味ないんですぅぅぅ!!!


色々自分から発信するのも面倒臭くて、準備とか整理整頓とか身の回りの事とかどうでもよくて、一人で引きこもって本読んだり作業したりするのが好きなんですぅぅぅ!!!


久し振りに家族が集まったりして、みんな家族の良さとか語ってるけど、私は全然楽しくないし共感もできないんですぅぅぅ!!!


リアルではそれなりにコミュ力あるフリしてるだけなんですぅぅぅ!!!



……ハァ、ハァ、こんなもんでよろしいか。

あー、引きこもりたい。


でもなんだか、ちょっとすっきりしました!
ええ、これでようやく閉塞感から抜け出せそうな気がします!このブログを読んでしまった方、聞いてくれてありがとう!("´∀`)bグッ!


次回は『なんで知能検査項目の数値ではなく、各項目の開きが=発達障害になってしまうのか?』について書きたいと思います。あくまで予定。忘れないようにメモ代わりね。

アイデンティティと取捨選択の関係(そしてオチ)

さて。前回の続きだよ。

mai-ko.hatenablog.com

今の世の中の流れを見ていくうちに、
環境に合わせた取捨選択能力とアイデンティティの形成は、はたして両立するのか?
っていう疑問が湧いてきて、今回は一つ、それについて考察してみようじゃないか、という話です。

手書きメモで考えをまとめるのが面倒で、またまたお酒を飲んだ勢いで書いて途中で寝てしまったので、二日に分けて書いてます。しかもその間、数日空いてます。
それでもよろしければ以下、どうぞ↓↓↓



もうすごいうろ覚えで書くから間違っていたら申し訳ないんだけれど、エリクソンのライフサイクル理論というやつがあって、そこでは青年期の発達課題として、アイデンティティの形成VSアイデンティティの拡散、があるのね。

アイデンティティって、自分自身の存在理由というか存在意義というか、「これが自分だ!」みたいな確信めいたものだと思うのだけれど、これの形成って、人生で一回だけじゃないよね。

青年期の課題とはされているけれども、現代においては青年期に限らず、人生の中で何度もアイデンティティの危機が訪れる。そしてその度に危機を乗り越えて、新たなアイデンティティを形成していく。発達心理学概論の教材にも補足的にそう書いてあった(ような気がする)。


つまりね、我々の暮らす現代は、エリクソンがライフサイクル理論を確立した時代とはもうだいぶ異なってきていると思うのですよね。

人間の寿命が昔に比べてめちゃめちゃ伸びて、一つの技術を身につけたくらいじゃ天寿を全うすることができなくなって、しかもそのたった一つの技術(アイデンティティ)でえらい長くやってきたものだから、それがぽっきり折れてしまった時にはもう立ち直れない……という弊害が実際に出てきているのですよ。

それを受けて、MAI-KOさんは考えました。

アイデンティティってすごい大事で大層なものに見えて、実は“今”を生き抜くための、一時的な指針に過ぎないのではないかね?と。


生き抜くための技術や基本情報がすごい速さで変化していく、情報化社会の今であればこそなおさら、ですよ。

向こう3~5年くらいは大丈夫だけれど、10年後には正直、今のままで通用するかは分からないよねー。みたいな?

もっと分かりやすい例で言えば、仕事をバリバリこなす事が生き甲斐の会社員が、ある日突然交通事故に遭って半身不随になる。もう一生、自らのアイデンティティであった仕事には復帰できない。はい、アイデンティティ拡散。

これから先の世の中は急激な技術・文明の発展によって、そういう事が誰の身にも起こり得る、って事だと思うのねん。


だから青年期、もしくはそれ以降に確立した一つのアイデンティティ固執せず、状況に応じて、それを変化させたり再構築したりする柔軟さが必要なんじゃないかな、って思うんだ。


先の、事故に遭った会社員の例で言えば、いつまでも五体満足であった時のアイデンティティに縛られているから苦しくなる。
まずは現実を、精神的な内部の感情ではなく物理的な外部の状況を受け入れる事だ。そこから柔軟に、また新たなアイデンティティを構築していけばいい話じゃないの。
今までの仕事ができなくなったからといってあなたはクズじゃないし、立派に考える頭と、それを表現するコンピューターも現代にはある。そういう人達のための仕組みなんだから、障害年金も受給すればいい、とも思うよ。

ほら、アイデンティティなんて状況に応じて、いくらでも作り直せるんだ。というか、作り直さなきゃいけないんだ。それができなければ死ぬんだから。


……と、ここまでが酔って書いた文章ね。以下、今日の私。


前回の記事にね、いつものミナコさんがコメントしてくれたの。

アイデンティティがある程度確立しているから
取捨選択できるのと、また、取捨選択し続けることはアイデンティティの確立に繋がるんだと思います。


Σ(・□・;)


……一見、上記で酔っ払った私が書き殴ったのと似たような事を書いているように見えますじゃん。

でもね、今回のお題、
環境に合わせた取捨選択能力とアイデンティティの形成は、はたして両立するのか?
って、“私自身が”環境に合わせた取捨選択を繰り返すほどにアイデンティティが拡散していく、と思ったのがきっかけなんですよ。

なんでそう思ったかって、一般的に現代では、自分よりも環境の方が平均的で理想的な答えになっているから。

何言ってるかよく分かんないですね。自分で考えなくても、探せば数値化された明確な答えがあるから、正しいのは自分(問い)よりも、環境(答え)という事になる。だから自分を環境に合わせてしまって、アイデンティティ(自分とはこういうものだ)が拡散していく、という事なんですよ。


でもね、ミナコさんが言ってくれているのは、本当にシンプルなんだけど、アイデンティティが取捨選択を生み、取捨選択がアイデンティティを育むという相互補完的な原則。つまり、つまりね……非常にシンプルに、


私はただ単に、アイデンティティの再形成に失敗しているだけなんじゃね?


ってオチ(笑)


ここまで来て気付いたんだけれど、アイデンティティの形成って、多分、ホント、ありのままの自分を認めてあげないとダメなんだね。あくまで予想だけど。

鬱になった時に動作性IQ141ってなって、捉え方も考え方も多くの人とは違うし、それでいいと思ったんだけれど、正しくアイデンティティを形成するためにはもう一つ、抜けてたんだよ。大事なものが。

私、診断が下りなかっただけで自閉症スペクトラムだもん。

まだこの部分をちゃんと受け止めてあげてないから、多分、平均的で理想的な環境に合わせるために苦しくなっちゃうんだぜ。


前半部分で、アイデンティティは“今”を生き抜くための一時的な指針に過ぎない、なーんてドヤってたけど、私自身が全然アイデンティティ形成できてないひよっこだったぜ!( ゚Д゚)


これ以上はテーマが変わってきてしまうので、また次回に~。

今を生きるために必要な、たった一つの能力

何か文章が書きたいけれども、書きたい事自体は別にこれといってないな、という空虚な気持ちから今、この文章を打っている。

極端な話、クラウドワークスでも開いて、文字単価1円以下の文章でも書いてこようかと思ったくらい。
何かを書きたいけれども、自分の内にあるものをカタチにするのは大変な労力なものだから、インスタントで欲求だけを満たそうという感じ。やばいね、思考停止だね。この状態を続けていると、いつかは私もデータの海に呑まれてしまうんだろうな。

という訳で、論理的な文章にする気力はないので少々漠然としたものになってしまいそうだが、完全な主観による、今現在の世の中の流れについて書こうと思う。


ニュースで、コンビニの24時間営業の是非だとか、NHKから国民を守る党だとか、煽り運転への非難だとか、世の中の動きをぼんやりと大枠で眺めている。

どっちが正しくてどっちが悪い、とかはこの際置いておいて、こういった話題はなんというか、とても現代的だなと感じた。

こういった話題の本質には、資本主義であるとか、過去の世を良くしてきた際に発生した既得権益であるとか、これまではモラルの問題であって規制されるべき事ではなかったものだとか、そういったものがある。
もっと突き詰めて言えば今、過去に形成され、現在進行形で発展、もしくは持ち越されてきたものにNOが突きつけられている訳だ。

つまり現在は転換期であると。
いや、世界は常に変化していくものではあるのだけれど、これまでの大枠の流れに対して、きっかけさえあれば様々なところでNOが叫ばれるようになった。

長いものに巻かれるように、そういうもんだから、皆我慢しているから、で済まされないようになってきた。陰で泣き寝入りして諦めるだけの時代は終わったのだ。


今よりも世界を良くしようと新しい試みがなされて、それが広がって当たり前になると、更に今よりも良くしようと再びブレイクスルーが起こる。


文明はこの繰り返しなんだと思う。

だから過去から持ち越されてきたものにNOと言えるこの風潮自体は、良いと思うんだ。このまま行ったら人間格差は広がる一方で、一部の人間だけが得をし続ける構図になると思っていたから。

おかしいな、という事に対して、皆が声を上げる事で、過去から引きずってきた行き過ぎた発展を叩いて削って、丸くしていくんだな。


これは新しい共通認識を築き上げて、それから外れた者は排除する……という事でもあるんだけれども。時代の流れについていけない(=進化できない)ものは淘汰されるのだから仕方ないね。多分、新たに築いたその共通認識も、何十年か経てばまた違う共通認識が発生して、それに壊されるのだろうな。


ともあれ、こうして人類は、人類全体の安全を確保しながら、少しずつ完璧なディストピアを目指していく。


想像していたよりも遥かに長生きになった人間とか、思想の違う国との折り合いとか、そういうのを処理しながら発展をし続けるのってとても大変だと思うのだけれど、それでもなんとか、ちょうどいいバランスのところを探して頑張っている。


こういう事を書くとまた、ディストピアになってしまって幸せか?みたいな話につながってしまうんだけれども、最近はもう既に、この世はディストピアなんじゃないかと思っている。少なくとも私にとっては、そうなんじゃないかと思う。

だって考えてもみてよ。

このまま時代が進んでいって、例えばベーシックインカムなんかが導入されたりして、そんなに働かなくてもある程度の暮らしが保障されるようになったとしてだよ。別に自家用ジャンボジェットなんかは欲しくない訳ですよ。毎日ステーキ、キャビア、フォアグラなんて食べたいとは思わない訳ですよ。そうしたい、と思う人にとっては、まだまだ足りない、楽園なんかじゃない、って思うのかもしれないけれど。個人的には別にそこまでの贅沢快楽は望んでいない。

まぁ……年がら年中麻雀打ったりパチンコしたりしてぇぇ!!みたいな欲ってのはあるかもしれないけれど、それを一生続けたとしても空しいな、っていうのも分かる。


じゃあ何をして生きていくかって、多分、今とあんまり変わらない気がするんですよね。

やりたいからやる。お金が無くなったら稼ぐ。必要なら優先順位をつける。みたいな。


今の世の中より文明が発展しようがしまいが、それに合わせて生きていくだけ。


(……ちょっと、これに共感してくれる人いませんかね?↑
そんな人いたら友達になりたい。お酒酌み交わして朝まで語り合いたい)


……と、まあ。


そこには命を懸けた戦いもないし、アイデンティティを証明する必要もない。そうしなければ生きていけない時代はとうの昔に過ぎた。いや、あってもいいとは思うのだけれど、普通に生きている大部分の人間にとって、それは必須ではない。


もっと具体的に言えば、今現在のこの世の中を生きていくために必要なたった一つの能力は『情報処理能力』だ。

『情報処理能力』といっても別にめっちゃITに詳しいとかプログラミングできるとかそういう事じゃなくて、ありとあらゆる情報の取捨選択ができるって事ね。

別に自ら新しいものを作って発信しなくても、生きるために必要なものってそこらへんにゴロゴロしてるから、どれが自分にとって必要なものなのかを探し出して取り出す事さえできればとりあえず困らないよね。自分には何が必要なのか、が分からない場合も多々あると思うんだけれど、これも自分を対象化して分析すれば見えてくるはずだよね。


ずっと前から方針自体は変わっていない(=うまく現場に反映できていない)けれど、今日の学習指導要領が謳っている、“自ら主体的に学び、判断する能力を身につける~”みたいなのって、多分、こういう事を言ってるんじゃないかな。ちょっと違うか。

この文章自体が私の主観マックスだから、発展とか切り開くとかそういう前向きな部分が削がれて、とても虚無的な感じになってしまっているけれど、多分、本質的には同じはず。多分。




……なんかまた、書いているうちに疑問が浮かんできたんだけれど。

環境に合わせた取捨選択能力と、アイデンティティの形成って両立すんの?

私は最近、自分の事を、永遠のモラトリアム(笑)だと思っているんだけれど。
人生を通して環境に合わせた取捨選択をすればするほど、アイデンティティ拡散していっている気がするんだが、これってどうなのかね。


今の世の中、命を懸けなくてもいい代わりに、日常を打破するドラマもないかもしれないけれど、こうして分からない事を考えていくのが面白いよね。

色々な事が解明されちゃって、調べれば答えが出てしまう世の中だからこそ、未解明な部分が多い、人間の心のメカニズムに惹かれるのかもしれないね。