愛犬の死と本質主義と迷子が進む道
愛犬の死
一昨日、我が家の愛犬が死んだ。
正確には私の母親が飼っていた犬なんだけれども、息子が生まれる少し前、里帰り出産に備えていた時にうちに来た犬だから、息子とは兄弟みたいなものだった。
室内犬でね。ポメラニアンなんだけど。
キャンキャン吠えてうるさいし、あっちこっちでおしっこしちゃったりするんだけど、本当に愛嬌があって可愛い奴だった。
今朝までは本当にいつも通りでね。息子の背中に「おんぶー」とか言ってやらせて、イチャついていたんですよ。
でもね、帰ってきたら亡くなってた。
家を出る前に私の母があげたおやつをのどに詰まらせてしまったらしく、現場にはとても苦しんだ跡が残されていた。
家を出る前のおやつは日課みたいなもので、私も母も、毎回家を空ける前にはそうしていた。母を責める事はできないし、何よりおやつをあげて出ていった母自身が一番苦しいと思う。
あんな人懐っこいワンワンがね、誰もいない家で、誰も助けてくれない中、苦しんで亡くなっていったと思うと本当に胸が詰まる。
交通事故や虐待死の事件を思い出した。
当たり前に続くと思っていた命が、失われる時はあまりにもあっけなさ過ぎて。
ある日突然、一つの生命が消えてしまって、その先はずっと消えたまま戻らない。
人生や、記憶といったものにある地点からの断絶を感じる。そしてそれは欠けたまま、今度は存在しない事が当たり前の世界として続いていく。
残された私達は、新しい世界にすぐには適応出来なくて、いてくれて当たり前だった大切な生き物の、最期の瞬間の苦しみを想像して打ちひしがれる。
器用という言葉の意味
完全に予想外にそんな辛い出来事があったものだから、私のキャパシティは一気に容量を超えてしまった。
とても辛い事があった時、人はふさぎ込んでしまう。
人によっては、理由付けや逃避行動などで自我を保とうとする。
私は、ふさぎ込む事も必要だと思う。
辛い事から目を背け、悲しい気持ちを受け止めず、なんとかやり過ごそうとすると、確かに表面上は気丈な人で、表面上はうまく回るだろう。
だけれど人として、それはどうなのかな。社会人である前に、感情を持って生まれた人として。
私は人生の四半期くらいまで自分は器用な方だと思ってきたが、他人に言わせると相当不器用な方だそうだ。
そうかもしれない。
感情を切り捨てて理を優先し、社会人としてうまく立ち回る事が器用だというのならば、そうかもしれない。
自分の思いや感情を優先して、泣いたり笑ったりしながらぶつかって傷ついてを繰り返すのが不器用ならば、そうだと思う。
でもその定義だとさ、器用って褒め言葉じゃないよね。少なくとも私の中では。
持って生まれた自分自身よりも、外部の情報、周囲の状況を優先する、ていのいい全体社会の埋没者だよね。
持って生まれた自分自身よりも、外部の情報を信じるようになってしまったら、自分って何だろね、って話になっちゃう。
人生の先輩やもっと昔の先達者たちが残してくれた知恵があるんだから、それを使わないのはバカ。で、その知恵をうまく使い回せるのが器用、っていうのはさ。確かにそうかもしれないけれど。確かに前者は効率悪いかもしれないけれど。
知識の上澄みだけをすくってやりくりするのを器用、っていうのはさ。中身は空っぽのバカ、って言われているのと同じだと思うんだよ。
本質に向き合う事
上記のような言葉の定義で行くならば、不器用な私はただただ自分の悲しみに向き合うしかない。
「仕方なかった……」とか「いつまでも落ち込んでいても仕方ない」とか、時間をかけず、切り替える方法は、あると思う。
でもそうやって、自分の悲しみを見ないふりして、きちんと向き合わないでいったら、“悲しみというものの中身を知らないバカ”になってしまいはしないだろうか。
外から知った情報や、辞書的な意味だけを参照して、効率的に判断する事が“強い”という評価になるのはどうなんだろうね。
例えばね、“悲しい”って事は、本当にこんなにも辛いんだ、という実感。“悲しい”という言葉の本質は、体感しなければ分からないと思うんだよね。
きちんと体感しきった上で、冷静な判断を下すのはいいと思うんだよ。でも言葉や物事の表面だけを見て、「検索すれば答えは出てくるのに、わざわざ体感するなんてムダ」と言わんばかりの、スピードと効率重視の空っぽを、現代的・有能と評するのは絶対に違うと思う。(いや、現代的、というのはその通りか)
ただね、私だってひたすら悲しい悲しい言って、いつまでも落ち込み倒すのがいい、って言っている訳じゃないんだよ。
しんどいけれども、悲しい事・辛い事に正面から向き合わないと、そもそも本当の意味でそれを乗り越える事はできない、と思っているんだよ。
正面から向き合ったら、辛すぎて立ち直れないかもしれない。
やっぱり事実を直視できなくて、思考停止に陥ってしまうかもしれない。
それでもね、まずは向き合って自分の頭で考えないと、自分自身が育たないんだよ。
自分を信じる力
冒頭の愛犬の死から来て、だいぶ抽象的な話になってしまったけれども、これらはあらゆる出来事に対して私が思っている事であってさ。
知識だけで武装した空っぽ人間って、やっぱり人として、魅力的じゃないんだよね。
つまり何が言いたいかっていうと、うんと傷つきながらも、自分や自分の感性を大事にして生きてる人は魅力的だって事さ。
傷つく事が弱くて、カッコ悪くて、恥ずかしいと思うから人には見せない。そんなの自分だと認めたくない、みたいな人達は、そのダサいと思っている部分を覆い隠すために上っ張りだけが肥大化していく。
そうしないと生きていけない世の中だから?
だったら尚更、自分の弱い部分と向き合って、根っこから成長していった方がいいんでないかね。
本当の自分をさらけ出せないまま、ただ生き延びるためだけにそのハリボテを保ち続ける事の方が、辛くて無意味だと思うのだけれど。
比較的最近、読者になりました方の、こちらの記事にすごい良い事書いてあった。
自分を信じる力、か……。
思えばこの30年間というもの、本当にそれだけで生きてきたんだよね。
進学校から自衛隊に行った初めての女子になったのもそう。自衛隊やめた後、一人で居酒屋開いたのもそう。昔はそれだけの瞬発力があった。生きる意味が、周りと違う自分をありのまま承認してもらう事だったから。
どうして今、今更になって、私は生き方に迷走しているんだろう?
それは多分、承認をもらえてしまったから……かな?
もう必死こいてまで、自分の存在をアピールする必要がなくなってしまったから。だから満たされて、もう突っ走らなくていいんだ、って思っちゃったんだね。
ここで気付いた。迷走の理由。
突っ走らなくてもいい、って、イコール普通になる、って事じゃないよね。
何を勘違いしていたのか、長年欲していた物が手に入って、突っ走る必要がなくなったからと言って、私が普通になる訳ではないよね。
承認を得て心が落ち着いても、私は変わらず2E(2重例外)のまま。
最初から、普通のやり方で、普通に溶け込めるはずがなかったんや……。
答え合わせ的あらすじ
書いている人の中ではつながっているけれど、これを読んでいる人は支離滅裂感ハンパないと思うので、ちょっと解説。
ワンちゃんが亡くなる前から、実は私、仕事がちょっとしんどかった。
こうすればいい、って自分でも分かっているのに、自分の既存概念をどうしても壊したくなくて、仕事としては間違った選択をし続けていた。
仕事として正解の選択は、本当に本当にしんどくて、そうするくらいなら仕事辞めた方がマシ、ってくらい。今思えば、そんな自分の中のこだわりを守るために、転職しまくって好きな事してたんだと思う。
でもこの曲げられないこだわりってさ、発達障害の特徴の一つだよね。昨日気付いたんだけど。
ともあれ、今の仕事は辞めたくないけどこだわりは捨てたくない、っていうジレンマの中でずーっと悶々としていたのね。そこへ愛犬の死というショック。辛い事に対するストレスキャパオーバー不可避。
どうするかっていうと、向き合うしかなかったんですよ。
根本的にストレスの容量を減らすために。
見て見ぬふりして後悔したり、辛さを内側に閉じ込めておかないために。
要素分解して、考察して、ちゃんとした答えを出して自信を持って前に進むために。
そのための、このエントリーさ。着地するまで着地点の見えないエントリーさ!
ワンちゃんの事は論理で解決できる問題ではなかったので、必然的に、仕事の方の解決に走ったんだな。
迷子が進む道
興味への過集中、意味を感じられない物事への集中力欠如、物をすぐなくす(笑)とかに加えて、“強いこだわり”、もかー……
意志が強いとか自分持ってるとか、これまではいいように脳内変換してたから気付かなかったけど、私の性格がもろ発達障害テンプレ、ってのは流石にショックというか、衝撃的でしたな。
でもここまで気付かずに生きてこられたのは2E故、という感じがしますね。
“ありのままを認めてもらう”という、これまでの人生で最大の潜在目標を達成した事で、目標を失った私。
目標がないままの生活テーマは、どういう訳か、“普通に溶け込む事”になっていた。
いや無理や。
目標があろうがなかろうが、私は変わらず2Eなんや。なんで普通に溶け込もうと思った?
今までほど頑張る必要はないけど、結局、2Eとして生きていくしかないやろがい。
自分を信じる力、かー……
どうせ偏っているのだから、普通の感覚を理解……する事はできても、内面化する事はできないのだから、少し前みたいにさぁ、自分だけを信じて生きればいいのかな?
この短い間にちょっとだけ集めてみた、でもやっぱりしっくり来なかった偏見のコレクションをさぁ。もっかい全部、捨ててしまおうかな?
そうしようと思う。多分、そうする事でしか、私は幸せになれない気がする。