【ギフテッドな日々】障害と天才の挟間より速報

動作性IQ141ギフテッド。そんな人の視点から見た世界をつらつらとつづっていきます。

今を生きるために必要な、たった一つの能力

何か文章が書きたいけれども、書きたい事自体は別にこれといってないな、という空虚な気持ちから今、この文章を打っている。

極端な話、クラウドワークスでも開いて、文字単価1円以下の文章でも書いてこようかと思ったくらい。
何かを書きたいけれども、自分の内にあるものをカタチにするのは大変な労力なものだから、インスタントで欲求だけを満たそうという感じ。やばいね、思考停止だね。この状態を続けていると、いつかは私もデータの海に呑まれてしまうんだろうな。

という訳で、論理的な文章にする気力はないので少々漠然としたものになってしまいそうだが、完全な主観による、今現在の世の中の流れについて書こうと思う。


ニュースで、コンビニの24時間営業の是非だとか、NHKから国民を守る党だとか、煽り運転への非難だとか、世の中の動きをぼんやりと大枠で眺めている。

どっちが正しくてどっちが悪い、とかはこの際置いておいて、こういった話題はなんというか、とても現代的だなと感じた。

こういった話題の本質には、資本主義であるとか、過去の世を良くしてきた際に発生した既得権益であるとか、これまではモラルの問題であって規制されるべき事ではなかったものだとか、そういったものがある。
もっと突き詰めて言えば今、過去に形成され、現在進行形で発展、もしくは持ち越されてきたものにNOが突きつけられている訳だ。

つまり現在は転換期であると。
いや、世界は常に変化していくものではあるのだけれど、これまでの大枠の流れに対して、きっかけさえあれば様々なところでNOが叫ばれるようになった。

長いものに巻かれるように、そういうもんだから、皆我慢しているから、で済まされないようになってきた。陰で泣き寝入りして諦めるだけの時代は終わったのだ。


今よりも世界を良くしようと新しい試みがなされて、それが広がって当たり前になると、更に今よりも良くしようと再びブレイクスルーが起こる。


文明はこの繰り返しなんだと思う。

だから過去から持ち越されてきたものにNOと言えるこの風潮自体は、良いと思うんだ。このまま行ったら人間格差は広がる一方で、一部の人間だけが得をし続ける構図になると思っていたから。

おかしいな、という事に対して、皆が声を上げる事で、過去から引きずってきた行き過ぎた発展を叩いて削って、丸くしていくんだな。


これは新しい共通認識を築き上げて、それから外れた者は排除する……という事でもあるんだけれども。時代の流れについていけない(=進化できない)ものは淘汰されるのだから仕方ないね。多分、新たに築いたその共通認識も、何十年か経てばまた違う共通認識が発生して、それに壊されるのだろうな。


ともあれ、こうして人類は、人類全体の安全を確保しながら、少しずつ完璧なディストピアを目指していく。


想像していたよりも遥かに長生きになった人間とか、思想の違う国との折り合いとか、そういうのを処理しながら発展をし続けるのってとても大変だと思うのだけれど、それでもなんとか、ちょうどいいバランスのところを探して頑張っている。


こういう事を書くとまた、ディストピアになってしまって幸せか?みたいな話につながってしまうんだけれども、最近はもう既に、この世はディストピアなんじゃないかと思っている。少なくとも私にとっては、そうなんじゃないかと思う。

だって考えてもみてよ。

このまま時代が進んでいって、例えばベーシックインカムなんかが導入されたりして、そんなに働かなくてもある程度の暮らしが保障されるようになったとしてだよ。別に自家用ジャンボジェットなんかは欲しくない訳ですよ。毎日ステーキ、キャビア、フォアグラなんて食べたいとは思わない訳ですよ。そうしたい、と思う人にとっては、まだまだ足りない、楽園なんかじゃない、って思うのかもしれないけれど。個人的には別にそこまでの贅沢快楽は望んでいない。

まぁ……年がら年中麻雀打ったりパチンコしたりしてぇぇ!!みたいな欲ってのはあるかもしれないけれど、それを一生続けたとしても空しいな、っていうのも分かる。


じゃあ何をして生きていくかって、多分、今とあんまり変わらない気がするんですよね。

やりたいからやる。お金が無くなったら稼ぐ。必要なら優先順位をつける。みたいな。


今の世の中より文明が発展しようがしまいが、それに合わせて生きていくだけ。


(……ちょっと、これに共感してくれる人いませんかね?↑
そんな人いたら友達になりたい。お酒酌み交わして朝まで語り合いたい)


……と、まあ。


そこには命を懸けた戦いもないし、アイデンティティを証明する必要もない。そうしなければ生きていけない時代はとうの昔に過ぎた。いや、あってもいいとは思うのだけれど、普通に生きている大部分の人間にとって、それは必須ではない。


もっと具体的に言えば、今現在のこの世の中を生きていくために必要なたった一つの能力は『情報処理能力』だ。

『情報処理能力』といっても別にめっちゃITに詳しいとかプログラミングできるとかそういう事じゃなくて、ありとあらゆる情報の取捨選択ができるって事ね。

別に自ら新しいものを作って発信しなくても、生きるために必要なものってそこらへんにゴロゴロしてるから、どれが自分にとって必要なものなのかを探し出して取り出す事さえできればとりあえず困らないよね。自分には何が必要なのか、が分からない場合も多々あると思うんだけれど、これも自分を対象化して分析すれば見えてくるはずだよね。


ずっと前から方針自体は変わっていない(=うまく現場に反映できていない)けれど、今日の学習指導要領が謳っている、“自ら主体的に学び、判断する能力を身につける~”みたいなのって、多分、こういう事を言ってるんじゃないかな。ちょっと違うか。

この文章自体が私の主観マックスだから、発展とか切り開くとかそういう前向きな部分が削がれて、とても虚無的な感じになってしまっているけれど、多分、本質的には同じはず。多分。




……なんかまた、書いているうちに疑問が浮かんできたんだけれど。

環境に合わせた取捨選択能力と、アイデンティティの形成って両立すんの?

私は最近、自分の事を、永遠のモラトリアム(笑)だと思っているんだけれど。
人生を通して環境に合わせた取捨選択をすればするほど、アイデンティティ拡散していっている気がするんだが、これってどうなのかね。


今の世の中、命を懸けなくてもいい代わりに、日常を打破するドラマもないかもしれないけれど、こうして分からない事を考えていくのが面白いよね。

色々な事が解明されちゃって、調べれば答えが出てしまう世の中だからこそ、未解明な部分が多い、人間の心のメカニズムに惹かれるのかもしれないね。