少数派のジレンマ
さて、昨日は機能不全家族ではなく子どもの方が機能不全という、逆説的かつ、言葉尻だけ捕まえたらひどい批判が巻き起こりそうなタイトルを書きました。
もちろん、私は機能不全子どもであった自分が悪いだなんて思っていないです。
でも、親や家族が悪かった、とも思っていないです。むしろ、当時の知識で、親自身の価値観の中で、全力を尽くしてくれたと思っている。
前回の記事で何が言いたかったかって、結局、子育てに常識を持ち込むな、って事ですよ。
親は自分が培ってきた価値観、常識を元に子育てをする。
でもね、常識とは十八歳までに身につけた偏見のコレクションだって、アインシュタインも言ってる。
世界は日々、進化していっているんですよ。変化、といってもいいですよね。
そんな中で、二十年も三十年も前に培った自分の常識が役に立つわけがない。
ギフテッド児や発達障害児は、そもそも子どもの性質が親自身と違う。世間的な認知も自分らの時代とは違う。
でも親世代が生きてきた時代とは周りを取り巻く環境が違う、っていう面で言えば、ギフテッド児や発達障害児に限らず、健常児を育てる親も一緒かと。
今、この瞬間の世界に触れて、臨床的な知見をもって一つずつ判断していくしかないと思うんだけどなー。
でも世の中には情報が溢れすぎているし、一つ一つ考えて対応するのはすごく手間だし大変だし、だから人はスキーマという認知の塊を作って省略する訳で。そのスキーマがレッテル張りとか常識とかにつながる訳で。常識が常識外のモノを無条件に阻害する訳で。
……本題に入る前に、別のジレンマが出てきちゃったな。
常識(だと自分が思っているモノ)があれば(考えなくてもいいという意味で)楽に生きられる。でも常識を疑わなければ真実を見失う。
よし、これを常識と真実のジレンマと名付けよう。
少数派のジレンマ
前置きめっちゃ長くなっちゃったんだけど、なんだっけ。
そうそう、少数派のジレンマね。
前記事で、家族ではなく子どもの方に問題があって、世間一般に合わせようと勝手にアダルトチルドレンチックになってしまう、というような話を書いたのだった。
ちょっと待って、これは別にギフテッドや発達障害児をディスっている訳ではないのです!
長い前置きで書いた『常識』という目線で見れば、そういう言い方になってしまうんだよ、って事を言いたいのです!
我々少数派は、自分達が少数派である事を自覚しています。
社会が非常に多くの人達で構成されている事も知っているし、多くの人達がより良く生きられるように形成されているものだという事も知っています。
だからこそ、声を上げる事に躊躇する。
何故って?
他の多くの人達は現在のシステムで生きているのに、私達のような少ない者のために、わざわざ全体社会様に目をかけていただくのは申し訳ない、という気持ちになってしまうのです。
……ごめん、言いすぎた。そんなこと思ってんの、私だけかもしんない。
と、ともかくですね、数の正義、っていうのは確実にあると思うんです。
政治だって、過半数とか議席の2/3とかで決めるでしょ?
言葉だって、多くの人が誤用を多用していたら、その誤用の意味が真実になっちゃうでしょ?
集団はその価値観から外れた個をいじめるでしょ?
3人のうち1人が反対していたら、その反対意見は受け入れられるかもしれない。
でも100人のうちの1人が反対していたら、その反対意見は押し潰されるでしょ?
そういう事ですよ。
正しいとされるのは常に多数派。
一般常識的に見て、家庭に落ち度がなかったとしたら、機能不全なのは子ども。
多数派で形成される社会に適応できないから、呼ばれ方は“障害”。
そういう事なんですよ。
社会が大多数の、多くの人達を生かしている事は事実。それが素晴らしいことであるのも事実です。
だから私のような少数の者が、自分達のためにしゃしゃり出て、それに水を差そうとするのはどうなのかな、と思ってしまう。
だって私達が黙ってさえいれば、多くの人達は煩わしい思いをする事なく、居心地がいいと思う枠の中で暮らしていけるんだもの。
私みたいな考えのマイノリティって、マイノリティなのかな(笑)
相変わらず諦観がひどい。
……でもちょっと待てよ?
政党同士で手を組めば多数派になるんでね?という政治家みたいな思考
確かに私みたいな2E(二重例外。高知能&発達障害の事)は少ないかもしれない。
でも純正ギフテッドや諸々の発達障害や性的マイノリティの方々とかHSP(←多分私これもあると思う)とか、方々で少数派と言われている人達を片っ端から束ねたら、一大政党になるんでね?
自分達だけでなくて『多様性を認める』っていう、時代にもひじょーにマッチした集団になるんでね?
え、ちょっとTwitterとかで募ってみようかな……
あ、でも募ったとして、意見をまとめられる気が全くしないw ちょっと保留でw
でもさ。
本当は結局、『みんな違ってみんないい』が浸透すれば全部解決するんだよね。
わざわざ一人ずつカテゴライズして、正体を明らかにして、自分に理解できるものにしないと受け入れられない人間って浅ましい……
なーんて思っちゃうけど、本来、人間も動物だから、本能的に自分と違うモノを忌避するのかなとも思う。異物を情報化することで、理性で受け入れられるようにしている。そう考えると、やっぱり人間の英知って素晴らしい。
それを思うと、『みんな違ってみんないい』が素で出来る人は(危機管理・生存欲求が低い、という意味で)、逆に動物的には異常なのか?
いや、私は情報化と理性での許しを越えたところにいる、“真の人間”だと思っているよ!