人は何故“ダメ出し”をしてしまうのか
遅ればせながらあけましておめでとうございます。
最近、ネットショップ制作の方にハマっていて少しブログの方を放置していたMAIKOです。
さて、言及予告をしていたいつものミナコさんの記事↓
mimosawolf69.hatenablog.com
まさに今日、息子に対してイライラタイムリーだったので(笑)、書いてみたいと思います。
自閉症スペクトラム的症状を受け入れられるか
こう言ってはなんですが、私は子供に対して、わりと寛大な(おおざっぱとも言う)方だと思っています。
出来る限り現代社会に適応していける選択肢を残しながら、場合によっては基本ルートから逸脱してもいい、というようなスタンスですね。
ただね……問題が二つあって、
①ずーっとしゃべってる。
②感情に振り回される。その時々の感情がダイレクトに漏れる。
この2点に関してはどうしようかと思っているんですよ。
いや、分かりますよ。振り返ってみると私も子供の頃、そうだったので。でも息子の方が若干この特性は強いかもしれない。
こっちが何をしていようと延々と話しかけてくる。夕食は食べだすまで、ずーっと調子悪いアピールしてくる。面倒な宿題はずーっとぐだぐだワアワア文句言いながらやってる。
いくら頭でそういうものだと分かっていても、ずーっとそれを聞いてるこっちはイラッイラするんですよね。
時間的にゆとりがある時はいくらでも付き合ってあげればいいんですけれども(そしてそれで状況が改善する事も多いのですけれども)、正直、時間がない時の方が多い。四六時中、息子につきあっている訳にはいかないのです。
本人も頭ではわかっているのだけれど、次々とあふれ出てくる考えに思考力を奪われ、関係ないことを喋りだしたり、今やらなければならないことを忘れてしまったりするようなのですね。
親がダメ出しをしたくなる理由
イライラの正体は簡単です。去年最後のブログで書いた、依存関係。自分の時間を子供に取られる、という物理的依存ですね。ダメ親を露呈しているようですが、あらゆる面で子供に時間や手間を取られているのに、子供が自分の思うようにならないからイライラするんです。
ただその時に、“ダメ出し”をしたくなってしまう理由というのが“世間との共存”ですね。
私に限らず、“ダメ出し”をする親は「世間との共存(生きていくため)にはこれが必要」という自分の価値観を子供に押しつけようとするから、“ダメ出し”という形になってしまうのだと思うのです。
世間には本当に色々な人がいます。誤解を恐れずに言えば、隠れ発達障害なんだろうなぁ(客観視ができず、自分の思いに任せて、言いたい事を一方的に話して満足するおばさんとか)と思う人にも出会います。そういう人達を見るとやっぱり周りから煙たがられていたり、正直、私自身も面倒だと感じてしまうのです。
今はまだ可愛い子どもだからいい。そして、私から見た息子はいくつになっても“かわいい我が子”だけれども、このまま大人になってしまって他人の目から見たら“ただの厄介な特性持ち”なのです。いつまでも私が傍にいられればいいけれども、自然の摂理として親は先に死にます。親としてはやっぱり、息子が成長して大人になった時に、自覚なく周りから煙たがられるような人間にはなってほしくない、とは思ってしまうのです。
親によって、“世間との共存に必要”だと思う基準は違うでしょう。
受験失敗で自殺してしまった学生は、直接そういう言葉で言われていなくても、“この先をよく生きていくには勉学が全て”だと教わったのかもしれません。個人的には、古い価値観だなぁ、と思うのですけれども、学歴がないと将来の選択肢が狭まるのは事実です。今よりも学歴重視の時代を生きてきた人たちの価値観では、尚更そう思うのでしょう。
(だからといって古い価値観を全肯定するつもりはありませんが。それについてはまたの機会に)
“自分が信じる正しさ”というフィルター
我が子の例で言えば、別に運動が苦手でもいい。友達が少なくてもいい。
でも、一言で言えば、人格的に浅ましい(他人の事が考えられない、自分中心)人間にはなってほしくない。
この親の希望が、子供にとっての呪いになる。そう言われてしまったらいったいどうすればいいのだろうか。
親は子供に衣食住だけ与えていればいいのかと言われたら、絶対にそんな事はない。
じゃあ子供のすることを全肯定してあげればいいのかと言われたら、それも違う。
なぜ子供を全肯定することに葛藤が生まれるのかと言われたら、この状態のまま大人になったら、“自己肯定感はあって幸せだけれども、社会の中では他人にうとまれるだけの存在”になりかねない、という恐怖があるからだ。もちろん、子供は自ら学んで勝手に育つのだろうけれども、それは家庭内に限らず、周りに自分以外の何か、いわゆる“環境”があるからだと言える。
そんな環境の一つである家庭で、親がどのようにふるまっても何らかの形で子どもに影響は与えてしまう(例えそれが子供を全肯定する事であっても)。結局親は、“自分が正しいと思う価値観”というフィルターのかかった形でしか子育てができないようになっているのだ。
問題点は『どこまでが“意見”で、どこからが“ダメ出し”になるの?』ではないだろうか。
件のミナコさんの記事では、とっても寒い格好でとっても寒い外にお買い物に出かけた娘ちゃんに対して「(レギンスとか)ない時はママに聞いてね!」で〆ている。
娘ちゃんに対する唯一の行動是正になる一言ですが、これはダメ出しにはならないのでしょうか?
意見とダメ出しの違いは、“相手を否定をするか、しないか”で定義づけができるような気がします。
相手を責めるような口調であるか、とかもそうですね。「こうした方がいいんじゃないの?」的な優しい口調でも、暗に“こうした方がいい=今のお前はダメ”みたいな意味を含んでいる時もある。
※私の場合は余計、敏感かもしれないです。高動作性IQの特性上、相手の口調や表情から、本心が全部透けて見えてしまうので。
なのでポイントは、“相手を否定しない(相手を肯定する)けれども、自分の意見も言う(自分も肯定する)”、ことなのかなと思います。
ずーっとしゃべっている我が息子の例で言えば、しゃべりたいという本人の気持ちは受け入れつつも、ずっと聞いていられないこちらの事情を説明する、といった感じでしょうか? 夕食前や宿題中の文句たらたらも「そういう態度に対して、お母さんはこう思う、こうする」ということを伝える感じでしょうか。
うーん、ダメ出し、になっていないかな? 客観的な意見が欲しいところですね。
振り返って
と、散々ここまで書いてから、実は世間で“ダメ出し”とされている行為に、上記に長々書いたような細っかい事情なんてあんまりないんじゃないか?と思えてきた。
不備を是正していくのが教育だ、と前提条件に刷り込まれている先生もいる。「自分はちゃんとお母さんやってます!」ということをアピールしたい心理から、子供の困った行動を大げさに話すお母さんもいる。
ただ一つだけ確実に言えるのは、みんな、社会(あるいは他人)と自分(あるいは子供)との間にある差異を埋めるために、ダメ出しをしている、ということ。
不意に、息子が掛かっているお医者さんの所見文を思い出した。
息子(自閉症スペクトラム)にとって大切なのは、甘えられる環境と、対処療法であると。
甘えられる環境は自己肯定感をはぐくみ、対処療法は社会との共存をはぐくむ。自分の中だけで生きていければ最高だけれど、現代社会で生きている以上、そういう訳にもいかない。
もしかしたらこれは自閉症スペクトラムに限らず、誰にでも言えることなのかもしれない。